廃園

一次二次創作を含む世迷言です。何でも許せる方のみどうぞ。あくまで個人的な発言につき、転載、引用はお断り致します。

【 Hello, World ! 】

※同人誌Web再録

 


 探していたんだ―――君だけを


 何もなかった―――俺の中には
 誰もいなかった―――俺の隣には

 探していたんだ―――誰とも解らずに
 この心が叫ぶ―――「たったひとりの誰か」を


 Hello, World !

 

 

 

 迫り出した崖から臨む海面は不思議な色をしていた。
 血のように赤く見える太陽が揺らぎながら緩慢に沈む様は、静かに波を返す水面にどろりとした泥濘を流し込み、薄く掛かる雲の隙間から時折漏れ差す光は、熾火を思い起こさせるような焼け付きを網膜に錯覚させた。

 ―――そう、錯覚に過ぎない。
 熱も、眩しさも、その「見ている」と「感じている」色でさえも。

 人々の集う地から遠く離れ、建物はおろか道すら通らぬ海岸の砂が横凪ぎに走る。時折岩肌にぶつかりふわりと砂を舞い上げる風は、不思議と佇む「彼」の髪の一筋すら揺らしはしなかった――髪だけではない、その身に纏う漆黒の長衣の裾の一片すらはためかせる事もなく。
 ゆっくりと、だが止まる事なく滲む水平線の彼方にその姿を沈めていく陽が、見遣る「彼」の青い瞳にくすんだ色反射を残した。その色は赤か、もしくは白か。
 「人間」ならば網膜を灼かれるだろう輝きに、「彼」は一度の瞬きもしない。一体何時から「彼」は「此処」から陽を見ていたのか。その光源が蒼天にある時からか、あるいは昨日からか、三日前からか、一月前からか。
 両の手を足首近くまで覆う長衣のポケットに差し込み、微動だにせず立ちつくす「彼」は、何の表情も浮かべてはいなかった。少しつり目がちな、未だ青年と表現するにふさわしい容貌は、もしも「ひと」のように微笑んでみせたなら、きっとその笑みを向けられた誰をも魅了するだろう。だがあくまでそれは「もしも」の例え話だ。
 「彼」の瞳はひたと一点に向けられたまま揺らぐ事もなく、全てを拒絶するように閉ざされた口角は上がる事もなかった。古の彫刻家が彫り上げそのまま打ち捨てられた彫像のように、「彼」はただその場に立ち続けた。

 そしてまた陽は昇り、夕なに沈み。

 幾日が過ぎたのか、もはや永遠に動かぬものと思われた肩に羽を休めていた鴉が一声鳴いて飛び立ちようやく、「彼」は視線を地に伏せ、そしてゆっくりと背後を振り返った。

「―――メフィスト
「まだ此処にいたのですか、燐」

 物音ひとつさせず、気配すら現さず、「彼」――燐と呼ばれた青年が目を向けた先には、燐と同じく黒衣に身を包んだ長身の男が立っていた。おどけたようにひょいと掲げてみせるシルクハットも、くるくると指先だけで回しているステッキも、全てが光を吸い込むがごとき夜の色だ。道化のような所作と裏腹に少しもそれが楽しそうな風情に見えないのは、遥か高みから玩具を見下ろすかのよう温かみが感じられない視線と、嘲弄するかに緩やかに弧を描く口元の所為だろう。「笑顔」を演じているのだとしたら、その「演じている」事すら戯れでしかないのだろう―――「傍観者」ですらない、「世界が違う」者の笑みだ。

「以前に貴方と別れてからずっと此処にいたのですか? こんな何もない所で。何てつまらない!」
「お前には関係ないだろう」

 二十代半ばかそこら、外見相応かと思われた燐の声色には、見かけの年齢通りとはとても思われぬ底の見えない虚無がひび割れていた。絶望すら見えないだろう洞には何もない。少し語尾が擦れているのはその咽が「音」を発するのが久方振りだという現れだろうか。呆れたようにメフィストが肩をすくめてみせる。

「関係ない事もないでしょう。私は貴方の事を存じておりますし、貴方をずっと見て参りました」
「………………」
「貴方が知らない事も存じ上げておりますし、貴方の記憶から取り零された事も、私には昨日の事のように思い出せますよ?」
「………俺達に『昨日』なんて何か意味があるのか」
「ほう! これはこれは異な事を仰る! 『昨日』も『明日』も、その運命を紡ぐのが『私達』でしょうに!」
「………運命?」
「そう! 『神』の定めたもうた『運命』に従い、私達はこの世界に『在る』のです。貴方も私も、『私達』はそれが『勤め』です。もしやお忘れではありますまい!」
「…………解ってる」

 言葉少なに、それでも返された応答に、メフィストは大仰に頷き、両腕を広げた。全くもって何から何まで芝居がかった事が好きな男だ。男――と言っていいものかは今は考えないでおく。それを言うならば自分とて同じだ。「イキモノ」ですらないこの身に、男だ何だと区別を付けられるものだろうか。
 「  」は人の世では無性であると伝えられている事は知っている。別段どう思われようが構わない。自分達が「今の形態」を取っているのは、それぞれの「我」が成しているだけに過ぎない。そんな都合など「人間」は知らなくてよい事だ。自分達ですら解らない――その「我」の始まりから燐は「燐」であり、そして何故か傍らにはこの巫山戯た道化者がいて、にやにやと訳知り顔で笑っている。
 何時からかなんて、もうずっと昔に考える事は止めた。
 
 ―――けれど、「違う」のは解っていた
 ―――自分の「隣」に在るべき「存在」は、「片割れ」は
 ―――例え「神」が命じたのだとしても、メフィストではないと、ある筈のない心が叫ぶ

「いい加減に用件を言え。何もなくて、お前が此処に来る訳がない」
「これでも心配しておりますのに!」
「言葉遊びは飽きた」

 真正面から見据える青い目を片手でいなし、メフィストがわざとらしくシルクハットを直す。

「―――勿論、お仕事ですよ。燐」
「……………」
「いわゆる『神の託宣』です。今度私達が向かう土地はニューヨーク。さぞかし生命と死と希望と絶望に満ちあふれている事でしょう!」
「……そうしてまた連れていくのか。無理矢理にでも」
「無理矢理ではありません。お解りでしょう? 全ては『神』の意志――定められた運命です。私達はただ、『神』の御心のままに
「―――笑わせる」
「貴方が笑えるのならばそれもまた『神』の意志です。私達は『神』の手駒のひとつでしか在り得ない。全ては定められているのです!」

 メフィストくるりと大きく回る。

 「神」の意志だと言うのならば、ならば何故自分には「燐」としての「意志」があるのだ―――いっそ意志も感情もないグリゴリであればよかったものを

 ポケットの中の手を握り締める。どれだけ爪を立ててみたとて、手の平の皮膚は破れず、この身体は血の一滴も流す事はない。温かくもない。鼓動も刻まない。
 「在る」だけなのだと―――思い知らされる。

 そんな燐の胸中など全てお見通しと言いたげに、メフィストが片手を自らの胸元に添え、中世の貴族を真似たのか芝居がかった動作で一礼する。

 ―――お話はそろそろお終いに致しましょう。既に我らの「仲間」も彼の地で「神」の意志の元に人々を「導いて」います。私達も向かわなければ

 ―――「神」の名の元に!

 自然のままに放置された雑木林だろうか。海岸線より少し離れた木陰から一斉に羽音がさざめく。水平線より完全に離れた太陽がその陽を長く伸ばす中、飛び立った鴉達の影がまだらに二人を覆った。朝日に照らされた地面に動くものはくるりくるりと舞う鳥の形をしたものだけで、二人の足元から伸びる筈のものはない。

 ―――行きましょう、燐

 リーダーらしき一際大きな個体が大きくカァと鳴き、一群を率いて滑空する。ひらりと一枚黒い羽が落ちた先には、黒尽くめの二人の姿はもう何処にも見えなかった。カァ、ともう一声、呼びかけるよう鳴き声が空に流れる。

 ―――応える声は、ある筈もなかった。

 
 

 俺は歩く―――雑踏の中を
 伸ばしてみた手は―――誰にも届かない


 ニューヨークの朝は陽が昇る前から既に騒がしい。
 立ち込めるスモッグと朝もやの入り交じる中、多くの配送トラックがけたたましくクラクションを鳴らしながら細い裏路地を我先にと行き交い、くたびれたツナギを着崩した清掃人が路上のゴミ袋を駆け足で回収車に押し込んでいく。街灯に背を預けて座り込んでいる男は未だ眠りの女神の膝にその夢を預けたままだろうか。明らかに肉親とは思えない――ストリートチルドレンとおぼしき少年に引っかかっただけのジャケットの裏側を探られても微動だにする事はなかった。彼等をちらりと横目に見る者もいるが、咎める声は上がらない。数々の人種と宗教が複雑に絡み合い、誰もが別々の方向へ祈り生き馬の目を抜くこの街では見慣れた光景のひとつだ。盗られた方が悪いのだ――数時間後に慌ててポリスステ-ションに駆け込んだところで、お決まりの用紙にサインさせられて終わりである。数日後に中身の抜かれた財布が何処ぞのダストボックスで見つかれば御の字だ。
 そうして街はざわめきの中に目覚めていく。大通りの路肩に並ぶイエローキャブ、ショップから漏れ出す甘いマフィンの香り、声を張り上げる新聞売りやサンドウィッチを売るストールの間をすり抜けて走るクロスバイク

 日々の中の今日を、今日の中の朝を生きていく人々のオーケストラだ。

 日常という雑多な楽器をかき鳴らしながら繰り広げられる喧噪は、地上から数十メートルの高さにある高層ビルの屋上まで届かない。鳥さえ舞わぬ天に近いこの場所で、その聞こえる筈もない楽曲に耳を澄ます者達がいた。あちらこちらのビルの屋上に腰を掛け、あるいは陽の差し込むテラスからガラス玉のような目で地上の雑踏を覗き込む黒衣の姿。高過ぎる高層故に彼等を見上げ気付く者もいないようだが、強化ガラスに覆われた壁面に非常階段などは今時ほとんど見当たらない。窓掃除のゴンドラもないのにどうやってあの場所まで辿り着いたのか。
 男もいれば女もいる。年齢も様々だが不思議と子どもの姿はない。共通しているのは皆足首まで覆う黒衣を纏っている事だ。よく見れば大概がツーマンセルで並び立ち、言葉を発することなく静かに佇んでいる。
 
 彼等同様に高層に並び立ち、屋上の柵に背を預けてぽつぽつと散る黒衣を眺めながら、まるで墓地に居座る鴉のようだと燐は思う。

 東洋の島国を始め世界の各地で鴉を不吉の象徴と見なす地域は多い。勿論全ての国がという訳ではないが、黒い体色としゃがれた鳴き声が、喪装と相まって死者の葬列を思い起こさせるからだろうか。かつては疫病を運ぶ媒介であり、文字通り「死を運ぶ鳥」であったろうが、致死率の高い疫病はほぼその存在を抹消され、またワクチンも開発された今のご時世に、鴉が「死の使い」などとんだお笑いぐさだ。

 ―――本当の「死の使い」は鴉などではない

 何の合図もなく、隣のビルから階下を覗き込んでいた二人が重力など感じさせぬ動きでふわりと飛び降りた。普通であれば墜落死も必至の行動は、それこそ鴉が舞い降りるかのようにスムーズであった。地面に直接は降りず、街灯の上に音もなく直立する。足下にはどうやら正面から追突したであろう配送車とイエローキャブがひしゃげ、漏れ出したオイルだろうか、路上がてらてらと嫌な光り方をしていた。
 周囲を取り囲む野次馬と、急ぐのだろうほんの少し視線を送った後に我関せずと足早に立ち去る人もいる。携帯電話に向かって大声で叫んでいる男性は恐らく救急に連絡しているのだろう。通勤途中の人間でごった返すこの時間に、救助の手が届くのは何時になる事か。
 そうして、いくら事故の混乱の中とはいえ、事故現場の真上とも言うべき街灯の上に立つ黒衣に、群衆の誰もが注意を向けないのは異様な光景であった。上空から飛び降りた事も、細い街灯の上に立っている事も、まるで誰もが関心がないようにすら見える。ただのひとりすら、不審極まる黒衣を指差す者もいない。黒衣の男が街灯から地面に降り立ち、イエローキャブの運転席へと歩き出した時すら、だ。

 数十メートルの距離を隔てていても、燐の目には眼下の光景がまるで目の前に起こっているかのように鮮明に見えていた。自分だけではない。隣に立つメフィストにも、ワンブロック離れたビルから見下ろしている黒衣の女二人にも同様に鮮明に見えている筈だ。
 ―――自分達は、「そういうもの」なのだ。

 携帯電話を握った男は未だ興奮気味に口早に捲し立てている。善意の行為であろうが救助の遅延に焦るあまり、言葉が口から止まらないのであろう。運転席がキャブに比べて高い位置にあったせいかドアの歪みも軽微で済み、集まった群衆の手によって運転席から引っ張り出された配送車の運転手は、胸を抑えたまま路上に寝かされていた。他国で安全期限を過ぎた屑鉄同然の廃車を不正改造し車検システムをクリアする事など、この国では珍しくも何ともない。運転席に見えないエアバッグがそのれっきとした証拠だ。衝撃はまともに運転手を前に押し出し、ハンドルとの接触は肋骨の数本にダメージを与えている事だろう。だがそれも、個人経営の業者ともなれば「運転中の不注意」か「自宅での不慮の事故」に置き換わる。人身事故の賠償と公共物の破損、不正改造及び営業停止措置に比べれば、車体を馴染みの修理業者へ引き渡し、割り増しで修理させた上にボディカラーを塗り替え、車体No.とプレートを常備してある数枚の内の一枚と交換した方が被害は少ないと考えるものだ。修理業者のレッカー車のペイントが警察のものと酷似しているのは偶然に過ぎない。

 一言も発しないまま、人並みを泳ぐように避けながら黒衣の男がイエローキャブの運転席を覗き込む。正面から追突され、その勢いで背後を街灯に押し付けられたその様は、配送車とはまるで比べ物にならない。歪んだドアは開く筈もなく、運転席には五十代とおぼしき白髪混じりの小太りの男が額から血を流したまま動かない。
 黒衣の男が振り返り、いつの間に隣に立っていたのだろう、片割れに向けて小さく首を傾げると、同じく黒衣に身を包んだ金髪の女は、仮面のような無表情のまま、黙ってひとつ頷いてみせた。

 ―――ああ、またなのか
 燐は微かに眉を潜める。解ってはいる。運命は変えられないし、変えてもいけない。全ては「神」の御心のままに―――それでも。

 群衆は黒衣のふたりに一瞥もない。
 ―――まるでふたりが見えていないかのように。

 燐の目には、見えていた。

 黒衣の男がキャブの窓から青白い手を差し入れ、そうして俯せたまま微動だにしない運転手の背に触れる。その瞬間、蛍火のような淡い燐光が運転手の身体を包み込み、もう片方の手で導かれるまま、ずるりと半透明の姿が運転席から透けて出た。
 周囲の群衆は変わらず騒ぎ立て、救急はまだ到着しない。運転席には変わらず血を流したまま俯せている男の姿。抜け出した方の男は不思議そうに背後にある「もうひとり」の自分の身体を見つめている。
 金髪の女の口が動く。振り返った運転手が女に向けて一言二言呟く。
 運転手が、頷いた。

 ―――もう駄目だ
 俺達の姿も声も、「生きているもの」には見えないし聞こえないのだから
 応えては―――いけなかったのだ

 女の手が、促すように半透明の運転手の背に触れる。また少し言葉を交わした後、女の手が指差す通りに運転手は空へ流れるように掠れて消えた。一瞬、その場から全ての音が消える。
 タイトルのない、無言劇のようだった。

 黒衣の男が両の手の平を合わせる。周囲の音が戻った。誰も何も気付かない。
 見えていない。聞こえてもいない。
 「生きている世界」との、接点はこんなにも微かだ。

 僅かな間を置いて、黒衣の男がまるで「下がれ」と命じたかのように手を振った。喧噪は変わらぬまま、波が引くように群衆が一歩下がった途端に、路面に零れたガソリンに火が着いた。小さな爆発音と共に運転手ごとキャブが炎に包まれるが、黒衣の二人はもはや一顧だにしない。
 ―――運転手の魂は、もはやその「肉体」にはないからだ。
 混雑の中を掻き分けて走ってきたのだろう、救急のサイレンの音が近付いてくる。無謀にも群衆のひとりがキャブの運転席から運転手の身体を引き出そうと試みたが、燃え盛る炎の勢いにドアに手を触れる事すら出来ない。

 ―――無駄な事だ
 既に運転手の魂は神の御許へと送られた。あの場で燃え朽ちているのはただの抜け殻に過ぎない。群衆を遠ざけたという事は、この事故で死ぬのは運転手ひとりだけだと定められていたからだ。救急は善良であった運転手の代わりに、不正を重ねた配送車の経営者を病院に運び込む事だろう。
 経営者は助かる。誰が悪であったか善であったかは問題ではない。群衆の中にも誰ひとりとして死者は出ない。そして定められた魂は神の御許へ。

 燐はぎゅっと目をつむる。これ以上見る必要はなかった。
 「全ては「神」の御心のままに

 ―――くそったれ!

 

 
 ―――生命あるものは気付かない。「俺達」は何処にでもいる。
 見えなくとも、聞こえなくとも。

 雑踏の中に、ビルの上に、公園の片隅に、墓地の片隅に、
 「神」の御業のあまねく、あらゆる時間とあらゆる場所に。

 時に見守り、時に手を引き、
 全ては「神」の御心のままに

 「人間」は「俺達」を時に「天使」と呼び、
 時に「悪魔」とも呼ぶ。

 生きとし生けるもの全てに、
 ―――定められた「死」を運ぶ。

 


 あなたがたは
 「かつては神の民ではなかったが、
  今は神の民であり、
  憐れみを受けなかったが、
  今は憐れみを受けている」
 のです
  
 ああ、偉大なるかな! 偉大なるかな!
 「神」は全てをお見通しだそうだ!

 

 


 俺は見付けた―――世界の中から君を
 道端に転がる―――例えただの石くれでも

 

 ピッピッピッピ、ピ―――………

 規則正しく上下運動を表示していたグラフがフラットになり、特別治療室に沈黙が訪れる。ヘッドサイドに点けられた小さなライトだけが彼女の血の気を失った顔を照らした。
 運命は変わらない。変える事など許されない。彼女がどれだけ善なる人間でも、今この瞬間より短くも長くも生きる事は叶わなかった。
 ―――全ては「神」の御心のままに


 ニューヨークの中心部に位置する大学医学部併設の総合病院の待合室は、日々肌の色が様々な患者で一杯で、およそこの建物に出入りするようになってからというもの、「患者のいない部屋」という場所を見た事がない。
 医学部併設といった性質上、その治療経過が研究発表の素材になったり、時に試薬のモデルに利用されたりという事はあるものの、医師免状を取りたてのひよっこが診療に当たる代わり、通常の医療機関よりも格安で治療が受けられる事から、ハーレムやダウンタウンで暮らす者達が待合室に詰めかけ後を絶たないのだ。

 患者が多いという事はそれだけ病に苦しむ者が多いという事であり、
 貧しき者が多いという事はそれだけ死に直面した者が多いという事で。

 この街に来て以来、燐はとある時期からほぼこの特別治療室や手術室の片隅から出る事を止めた。
 元より何かを食べたり飲んだりする事がない身体だ。睡眠すら必要がない。
 毎日数時間置きに患者が運ばれて来ては、その内誰かは生き延び誰かは死に至る。
 始めの内は単に暇潰しもあって病棟内をうろうろ彷徨っていた。メフィストは何処ぞへ消えてしまっていたし、どうせ誰にも見えないのだ。壁もドアもその気になれば「ない」ものとして通り抜ける事が出来る。
 回復に向かう人々を見るのは優しい気持ちになれた。退院を家族と喜び合う笑顔を見るのは嬉しかった。

 ―――けれど、見送る事を繰り返す度に気付いてしまった。
 ―――思い出してしまったのだ。

 どれほど善き人であろうとも、どれだけの人が嘆き悲しみ願おうとも、
 「全ては「神」の御心のままに
 誰の運命も変えられやしないのだと。ハレルヤ!

 生きて欲しいとどれだけ願っても、「神」の定めたもうた「運命」は変えられない。そして願えば願うほど、その「運命」は見えてしまう。
 眼球を抉り出したとて、僅かな時間で何事もなかったかのように再生する。
 幾度心臓を貫いたとて、ナイフはすんなりと身体を透過するばかりで。

 「眠り」にも「死」にも逃げられず、自分には見守る事と送り届ける事しか出来ない。
 「天使」と唄われる自分は「死神」ではないのか。どんな悪人の魂も「神」の御許へ送るというのに!


 もはや機械音すら止んでしまった治療室に、生きとし生けるものは誰ひとりいない。
 彼女は貧しくとも善き人であり、善き女性であり、善き母親であった。ドラッグに狂い歩道に突っ込んできたバイクからまだ幼い娘をかばい、後頭部を強打したまま意識を失った。夫となる男はおらずとも、彼女は正しく生き、貧しくとも誠実に「神」を信じていた。

 冷たい胸に右手をそっと差し出し、せめてと祈った。薄ぼんやりとした光が術着の彼女を包む。差し伸べた手に縋るように、彼女の「魂」がその半身を起こす。無意識に周囲を探る視線は娘を探しているのだろう。

 面会謝絶のドアの外、冷えきった廊下の片隅に置かれた長椅子に泣き疲れて眠る幼子に、たった一言別れの言葉も言えないような、そんな人生を彼女は送っていなかった筈だ。

(………あなた、は?)
「……………」
(……あの子は? あの子は無事なの? 何処にいるの?)
「………あんたはバイクに撥ねられたんだ。娘さんは無事だよ。あんたがちゃんと護ったからな」
(あの子は何処? 寂しがってやいないかしら? お腹を空かしていないかしら? お願い、あの子に会わせて!)

 俺の声が聞こえるんだな………
 ならばもう燐に出来る事はひとつしかない。

「………あんたは死んだんだ。もう………会えない。あんたの声も姿も、あの子には届かない」
(! ………あなた、は)
「………『神』、の御許へあんたを送る。……大丈夫、あんたはちゃんと天国の門をくぐれる」
(………あのこを……だきしめることもできないの………)
「あの子はこれから長い人生を送る! ………あんたが、門の外で待つ必要はないんだ」
(……………そう、そうなの、ね………)

 言えない事がたくさんある。
 あの子に「運命」は見えない。人生を長く生きるだろう。ただし、これから施設に引き取られる事になるあの子の道程が、穏やかで優しいものである保証はない。
 彼女は毎日泣くだろう。母親を恋しがって、温もりを思い出して、寒さに毎夜その身を震わせるだろう。
 孤独に泣く魂にまんべんなく分け与えられる程、「神」の愛は広くも深くもないのだ。

 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
 その導き手を奪ったのは、「神」よ! あなたではないのか!

「………目を閉じて。暖かいと感じるままに昇ればいい」
(……あのこを………どうか………) 

 真実を告げないこの舌は何故引き抜かれないのだろう
 ああ、「俺達」には「泣く」事すら許されていない
 

 彼女を取り巻く光が消えても、燐は暫くその場を動けなかった。今まで長い時間に幾つもの魂を天に還してきた。悪しき魂も、善き魂も。何度も繰り返してきた事だった。それが「神」から定められた「勤め」なのだと言い聞かせてきた。

 けれど―――けれど、彼等を送る自分の「魂」は果たして「善き」ものであるのだろうか?
 真実を述べず、甘言で偽り、幼子から愛を奪い、助けの手を伸ばす事も出来ず。
 あの子にとっては――自分は正しく「悪魔」だろう。

 「天使」は疲れなど感じない。永遠に「今」のままだ。それでもどうしても立っている事が出来なくて、ずるずると惰性のまま冷たいタイル床に腰を降ろした時、ノックもなしにいきなり両開きの扉が開け放たれた。同時に点けられた室内灯の白さに網膜が軋む。

「失礼! ミス・タランダ!」
「ママ!」

 幼子を胸に抱き、安っぽい人工灯の明かりと共に飛び込んで来た白衣の青年が、まるで自ら発光しているかのような錯覚がした。子どもをすぐドアの脇へ降ろし、手早く機材のモニタを確認していくその容貌は逆光に陰ってはっきりとは見えない。彼女の鼓動が止まった事を別室のモニタで確認したからこそ、無礼を承知で飛び込んできたのだろう。心肺停止を確認しても尚諦めず、内線コールにて救急救命措置の指示を出し、担当スタッフと繰り返し電極パッドを押し当てる姿が、眩しくて見ていられない。

 無駄な事なのだ。
 それは彼女の「魂」を天に届けた燐が一番よく承知している。何をしようとも、彼女は既に「昇って」しまった。一度「門」をくぐった「魂」は二度と現世に繋がる事はない。
 けれどそれを伝えようにも、燐の声も姿も目の前の「彼」には届かない。
 触れる事すら叶わない。

 やがて、リミットとされる時間が過ぎ、他のスタッフに止められた事もあって、ようやく「彼」は電極パッドを離した。放電を確認してからでなければ、娘が母親に縋る事すら出来ないと言われ、十字を切って乱れた彼女の術着を整える。

「………メル、おいで。ママにさよならを言おう? とっても哀しいけれど、ママは遠くに行く事になったんだ」

 「彼」が静かにしゃがみ込み、ドアに手をついて覗き込んでいる幼子に視線を合わせて手を伸ばす。壁に背を預けてへたり込んだままの燐からは生憎と「彼」の横顔しか見る事は叶わなかったが、それでも彼が眼鏡を掛けている事と、口元に黒子がある事、よれた白衣の袖から覗く手首が骨張っている事、そうしてメル――恥ずかしながら「彼」の呼び掛けによって初めて名前を知り得た――に呼び掛ける声が優しく労りに満ちたものである事を知った。
 救急スタッフからの態度を見るに、若いながらも彼が「医学生」ではなく、きちんと免状を取得した医師である事は想像がついたが、それにしたって若い。時を止めた燐とは比べるまでもないが、多分二十代の半ばを過ぎてはいないだろう。年齢の割にてきぱきと指示を出す対応から「彼」がそれなりに場数をこなしている事が解る。自信はあっても自惚れてはいない誠実な態度に、改めて燐は名前も知らない「彼」に好感を覚えた。

 この時から―――「燐」の世界はその色を変え始める。

 


 何を考えてる? ―――君にこの声が届けられたら!
 誰を見ているんだい? ―――夢の中だけでも君に逢いたいよ

 

 それから燐は、治療室を出て「彼」を探し始めた。
 迷いのない手際からてっきり救急担当だと思い込んでいたのだが、処置室を覗いても「彼」とおぼしき姿が見付けられない。こうなればと耳にした声と見て取れた口元の黒子を頼りに病棟中を捜し回り、やっと「彼」を見つけたのは病棟の診察室ではなく、予想外にも新薬開発研究棟のパネルルームの中だった。
 細菌や微生物を扱う特殊棟は、警戒態勢もP3レベルであり、当然中にいる人間も全員が滅菌防衣にマスク、帽子に手袋と完全防備だ。それぞれの胸にネームプレート兼入室カードキーは着けているものの、はっきり言って始めは全員同じに見えて諦めかけていたぐらいだ。培養ブースを抜け、減圧されたエアカーテンをくぐり、滅菌用の紫外線放射と兼用のシャワーブースから出てきた「彼」の黒子を見て、思わず「見つけたー!」と大声で叫んでしまったのは、もしその場にメフィストがいたなら間違いなく腹を抱えて笑われた事だろう。もしかして胃痙攣でも起こすかもしれない。それほど永きに渡って「感情」を封じ込めていた燐にとって、「彼」との再開は待ち望んだものであったのだ。

 シャワーブースから、ジーンズによれよれのカッターシャツ、これまたしわくちゃの白衣を羽織って出て来た彼は、頭をすっぽりとバスタオルで覆ったまま、無精にもそのままがしがしと乱雑に水分を拭いだす。シャワー後にはほとんど意味をなさないだろう白衣を羽織っているのは、単に胸のネームプレートを外すのが面倒なだけではなかろうか。鏡の前に立つ「彼」に見えない事をいい事に、そっと背後から鏡越しにプレートを覗く。「彼」からは燐の姿は見えないし当然鏡にも映らないが、燐からしてみれば、意識次第で「彼」の背後の自分の姿を、その視界に限り鏡に映しだす事が出来る。少しずらして立ってみれば、「彼」の身長はほとんど燐と変わらないようだった。バスタオルに隠れがちなプレートを鏡文字に注意しながら覗き込んで読み取る。

「ユ…キ………、ユキオ・オクムラ……奥村雪男、ね。ジャパニーズか」

 純血種であるかどうかは不明だが、ここニューヨークで彼にとっては外国語を用いて専門用語をすらすらと操り、あまつさえ研究者としてブースに立ち入りを認められるようになるまで、どれだけの努力を要したのだろう。診療病棟とは違い、あくまで実力で判断される研究ブースでは昔ほど人種差別も少なくなったが、それでも全くなくなった訳ではない。アジア系医師の診療を嫌がる白人系の患者はいくらでもいるし、伝統とやらを重んじると嘯くレストランなどではあからさまに座席を分けられたりもする。燐にとっては死んでしまえば誰も彼も変わりはないが、先住民族を迫害して自分達の国家を立ち上げた米国という国の中では、かつての奴隷制度に由来するアフリカ系黒人への蔑視とも相まって、実際のところ有色人種がこの国でそれなりの立場まで上がるというのは口で言うほど簡単な事ではない。それをこのユキオは恐らく二十代の若さでやってのけたのだ。先だって垣間見た誠実な人柄と、確かな知識で裏打ちされた技術でもって。
 若いのにやるなぁと些か年寄りじみた感慨を感じつつ、成り行きで背後から白衣の背中に滴る水滴を眺めていたら、突然ユキオが頭のバスタオルを取り払った。咄嗟にのけぞり接触を回避する。

「おい! 後ろに俺いるんだからよ!」
「……ふー………」

 勿論ユキオには燐の存在など見えてはいないし、その文句も聞こえてはいない。
 バスタオルが燐に不用意に触れたとて、「何かに引っかかったかな」と思われるのが関の山だ。
 気配を殺す事に慣れ、今更誰に手を伸ばされようとも自分の存在を透過させて済ます燐が、どうしてユキオの言動に向きになってしまったのか――その答えを脳裏に考えるよりも早く、鏡越しに飛び込んできた美しい「碧」に燐は目を奪われた。何もかもを吸い込むような孔雀色の瞳の中心に、深紅の虹彩が強く光る。
 正真正銘初めて見た――瞳の色は違えど自分と同じ深紅に、吸い込んだ息を吐く事も忘れ言葉も出ない。

「ユ、ユキ………」
「ああ、あった。やっぱり眼鏡がないと駄目だな。食事…よりもさっきのレポートを纏める方が先か」

 鏡とセットされた洗面台の小物台に置かれたままになっていた黒縁の眼鏡をユキオが手に取る。視界がクリアになって行動が安定したのか、今度こそ勢いよく振り返ったユキオに思いきり頭突きを喰らい、顎を抑えた燐がしゃがみ込んだのは本人の名誉の為にも秘匿事項である。

「………何だ? って誰もいないし、ねぇ……?」

 触れられない筈のユキオが漏らした独り言は、燐が呻いている間に湯気混じりの空気にほどけて消えた。


 伝えたい言葉があるんだ―――何と言っていいのか解らないけど
 届けたい気持ちがあるんだ―――名前が付くまで待っててくれるかい?

 
 

 知れば知るほど―――ユキオは燐にとって衝撃だった。
 研究ブースにおいては神経質なほどまめに細かい作業をこなすのに、私生活においては、意外という言葉では到底足りないほど、ユキオには生活能力が不足していた。ショートスリーパーのくせに寝起きが悪く、鳴る前のアラームを自分で止めては、暫くデジタル表示された数字を眉間にしわを寄せて睨んでいる。ユキオは病院に付属する職員寮に住んでいる為、時間さえ間に合えば朝食は寮の食堂を利用し支度に困る事などない筈なのだが、生まれつきの低血圧なのか髪の毛の寝癖を整えるのが精一杯につき、当然食堂の利用など夢のまた夢で、CMで盛んに叫ばれているゼリー飲料を銜えながら病院までの道のりを早歩きで歩いている。一度眼鏡を割って盛大に出勤が遅れ、珍しくも病院まで走っているのを追いかけたが、ロッカー室に入るなり白衣も出さずにぜいぜいと息を切らしていたので、本人も「早歩き」が自分の限界だと自覚しているのだろう。そんな姿を珍しいと言えるほど燐はユキオの背後に入り浸り、何をするでもなく(どうせ何も出来ないが)日々ユキオを眺めては過ごしていた。まともに食事も摂らず、掃除洗濯は最低限。「埃じゃ死なない」と言い切るタイプだったユキオは、同僚と飲みに行くでもなく女性と付き合うでもなく、ただ毎日を寮と病院を行き来して一日を終え、自室にいる時間よりも研究室に住み込んでいると言った方がよっぽど適切な生活をしていた。それでも研究の成果と、現場における対応の適切さと処置の早さは病棟随一である為、時折診療担当の医師の出張や、救急現場での人手が足りない時には率先して研究ブースから引っ張り出されている。

 燐がユキオを初めて見た夜であるメルの母親の時の一件も、同時多発的に起きた事故の対応で応急処置を施せる医師が足りず、研究室から直接救急病棟に応援を頼まれたのだと知った。後日一週間がかりの研究をやり直す羽目になったと燐が知った時も、ユキオは文句ひとつ言わず黙々と徹夜で手順を繰り返していた。
 研究の成果よりも、伝統や立場よりも大事なものがある事を理解し、「ひと」としての優しさと、黙って手を差し伸べられる強さに燐は惹かれた。

 ユキオが男性である事など、自分が「人間」じゃない事に比べれば些かも障害にならなかった。


 眠る瞼にキスをして、君の髪の香りに酔う
 抱き締める事も叶わない―――触れる風にも嫉妬しそう
 
 
 雪男は違和感を感じていた。

 何がどうという確証はない――ただ何となく、気配がするのだ。包まれるような、くすぐったいような。こうして自室を見回しても、自分ひとりしかいないと言うのに。不思議と嫌悪は感じない――何故だろう? 目の前にいる人間ですら、雪男の意志を無視してテリトリーに侵入しようとする者は、バッサリと切り捨てて生きて来たのに。

 最初は些細な事だった。
 休日に解除し忘れた筈のアラームが鳴らなかったり、無くしたと思っていた万年筆がデスクの上に乗っていたり。偶然だと、気の所為だと思っていたそれは、本当にささやかな幸運だった。幼い頃に修道院で読んだ絵本のようだとこっそり笑った。
 小さな小さな幸運にも慣れた頃、小人は少しだけ大胆になった。
 脱ぎ捨てた筈の白衣は皺を丁寧に伸ばされてロッカーに仕舞われていた。研究室から夜明け間際に帰ってそのままベッドに潜り込んだ朝には、テーブルにまだ温かいカフェオレのカップがあった。一日中電子顕微鏡を覗いてへとへとになった後の洗面所には、小さなミントのキャンディが置かれていた。

 雪男の領域を侵さない―――ほんの少しの思いやりと気持ち。

 穏やかな優しさに、雪男は少しだけゆっくり眠れるようになった。
 着の身着のままでベッドに潜り込んでも、翌朝にはジャケットはハンガーに掛けられ、スラックスは寝間着に換えられていた。きちんとプレスされたネクタイに唇を寄せれば、それはまだほんのり温かく、思わず頬をすり寄せた。
 自分以外誰もいない筈の部屋で―――誰かが頭を撫ぜてくれた気がした。

 気配と気持ちを感じる―――満ちるように。たゆたうように。
 きちんとアイロンが掛けられたカッターシャツに袖を通すのにも何時の間にか慣れた。温かく熱を残したシャツに、抱き締められている気がした。

 鏡に映る―――自分の顔。自分ひとりの。

「………ねぇ、本当にいないの?」

 一瞬だけ、青い幻を見た気がした。肩に感じる重みに、鏡越しに夜色の影が霞んだ気がした。

「………臆病者」

 首筋に感じた吐息は―――絶対に気の所為じゃないと思った。

 


 君を愛する事は―――罪だろうか?
 何を失っても―――君を愛し続けると誓うから


「―――変わりましたねぇ、燐。あれ程世界に飽いていた貴方が嘘のようです」
「……………煩い」

 あの日姿を消した時と同様に、白い煙と共に突然出現したメフィストは、燐を一目見るなりにやんとチェシャ猫のように笑った。

 病棟の中で時折「仲間」とすれ違う事はあったけれど、燐はあえてそちらを見る事はなかったし、「仲間」も燐に構う事はなかった。元々「天使」は「神の御心のままに」動くだけの存在であり、仲間意識など皆無であった。自分はメフィストの馴れ馴れしさをもう常のものとして意識から排除していたけれど、改めて考えてみれば、メフィストこそが「異質」である事に燐は気付いた。古びていながらも生命を護る場である病棟に、メフィストの黒衣がひどく忌まわしいものに見えて、燐は外壁を爪先で蹴り跳ねながらメフィストを屋上へと連れ出した。くすくすと笑い続ける笑みが自棄に癇に障る。何がおかしいと問えば、応えの代わりか、「貴方も同じでしょう」とだけ返された。返された言葉に、燐は改めて自分の黒衣を意識し、そして絶望した―――「天使」に「望む」事が赦されるのであれば、だが。

 メフィストの黒衣が気に入らないのならば――「天使」の黒衣が忌まわしいと厭うのならば、自分こそが病棟に染み付いた穢れそのものに等しい事に燐は気付いた。ユキオの傍にいたかった。ユキオを見つめていたかった。ユキオの護りたいものを護ろうと思っていた。ユキオの笑顔が見たかった―――寂しくないように、哀しくないように。真綿で包むようゆっくりと眠らせてやりたかった。
 ユキオと出会ってからのほとんどの時間を燐はユキオを見つめて過ごしていたので、自分が纏う色を――ほんの少しだけ、忘れていたのだ。

 思い出す―――自分が送った「魂」を。救えなかった幼子を。
 そしてあの日の眩しさを。

「………俺、は」
「―――――あの『人間』に、囚われたのですか? 燐。『神』の御声も聞こえなくなる程に? 『運命』を――『勤め』を投げ捨ててもいいと思える程に?」
「………俺は!」
「……………本当に、変わりましたねぇ、燐。心配せずとも、貴方が変われた事を、私は責めやしませんよ?」
メフィスト?」
「人間らしくなる、よろしいじゃありませんか! 愛し、愛されて、貴方は貴方になっていくのです。誰しもひとりきりでは変われません―――ひとりきりでは……誰も愛してくれませんからね」
「………お前」
「ああ永かった! 輪廻を回し時を越えて、ようやく悪友との約束を果たせそうです! ………あの破戒神父は何処で煙草を吹かしているのやら。探しに行くのも一苦労ですよ」

 お別れです、とメフィストが燐の髪を乱暴に掻き回す。メフィストらしからぬ乱雑な仕草に、記憶の奥底がつきりと痛んだ。

メフィスト
「以前にも申し上げましたが、私は貴方が知らない事も存じ上げておりますし、貴方の記憶から取り零された事も存じています。―――だが、それは『今』の貴方には必要のないものです。貴方はこれから生まれ直すのですから!」

メフィスト

「―――幸せにおなりなさい、燐」

 愛した者を愛するままに――生きていきなさい
 それだけが貴方を愛した―――「彼等」の願いなのですから

 

 君に逢いに行くよ

 羽は要らないんだ。君は天にはいないから
 この目で君を見つけ
 この足で君を追い掛け
 この腕で君を抱き締める為に

 君に逢いに行くよ


 
 ―――空が近いな、と燐は思った。

 ワン・ワールド・トレード・センターと名付けられたこのビルは、未だその手を空に伸ばし続けている途中である。かつて数多の命が失われた嘆きの地で、家族を、恋人を、想い出を、大事な誰かを奪われた悲しみを胸に抱きつつも、人々は「前」に進む事を諦めなかった。「ひと」としての「強さ」―――「彼等」はその手を伸ばす。

 「前」に向かって
 「空」に向かって

 ―――「天」にいる「あなた」に――逢いに行くよ、と

 

 
 ユキオに「逢い」たいのだと、その「望み」を告げた燐に、メフィストくるりステッキを回してシルクハットを押し上げると、まるで何でもない事のように言ってのけた―――「逢いに行けばよろしい――天から、地上へ。何、珍しい事じゃありませんよ」――と。

 思いもよらなかったのだろう、驚きに目を丸くして口ごもる燐を楽しそうに見遣りながらメフィストは言った。

「『天使』は古から『ひと』に惹かれてきました。あの強さ、あの儚さを、どうして愛しく思わずにいられましょう。見守るだけの者もおりましたし、自らの片割れとして迎えた者もおります。ですが、愛した者を愛したまま、その手に望んだ者は、自ら地上に降りる事を選びました」
「……降りる、って」
「ただ、降りたらよろしいのです――天から、地上へ。羽も力も何も使わず、貴方は貴方のまま、愛するひとの事だけを考えて降りたらいい。簡単な事です」

 人間だって知っている方法です、と、メフィストは笑う。

「まぁ人間はそれを『堕ちる』と思っているようですがね――色や肉の欲望に目が眩んだのだと。確かに言われてみればそうかもしれません。『神』の『愛』を棄ててまで、温かい温もりに触れる事を選ぶのですから」
「………」
「ですが、『降りる』のでも『堕ちる』のでも構わないのです。同じなのですよ。触れたい、と『ひと』を選んだ時に、私達は『天使』ではなくなっているのですからね」

 くまの浮いた顔が懐かしげに燐を見る。確かに自分を見ている筈なのに、メフィストは自分を過ぎた誰かを見ている気がした。もうどれだけの間メフィストといたのか解らない位なのに、初めて見る顔をしていると思った。

「………メフィスト、まさか、お前……」
「――さぁ?」

 ―――お行きなさい。貴方は貴方の愛する「ひと」の許へ

 ゆっくりとメフィストの姿が霞んでゆく。

「地上に降りたらもう貴方には『私』の姿は見えません。貴方が幸せを掴むように、『守護天使』でもやってあげましょうか?」
「要らねーよ」
「おやおや」
「ユキオに逢えたら、ユキオが『俺』を見てくれたら、それだけできっと俺は『幸せ』だ。………『神』じゃない、ユキオが『俺』を幸せにしてくれるから、助けなんて要らねー」
「………余計な事を言いましたね」
 
 ではお守り代わりにこれだけ、と、白い羽根が一枚、燐の前に揺らめいた。

「棄てても構いませんが、羽根の一枚位ポケットに入れておいたとてよろしいでしょう。悪いようにはしませんよ」
「悪いようって何だ。『天使』のくせに」
「そうでした」

 透けて見えるニューヨークの街並に、メフィストの姿はもうほとんど見えない。
 
 ああそうだ、もうメフィストの姿を見る事は出来ない。おどけたように回るステッキも、からかうような口調も。
 何かを言わなければならないと焦るのに、何も言葉が浮かばない。

 手の平を握っては開く、を繰り返す燐の動作に、解っていると言いたげにメフィストはゆっくり首を横に振った。

「大丈夫」
「―――メフィスト
「大丈夫ですよ、燐。きっと貴方は『幸せ』になれます。何か困った事があったら、取りあえず回りを見渡してごらんなさい……」
メフィスト!」

「××××××××××××××××××××××××××××××××」

メフィスト! 聞こえない……!」

 そうして
 ひとり取り残された病棟の屋上で、燐はゆっくりと足元に落ちていた羽根を拾い上げ、決めた。

 


 足元や周囲に巡らされた鉄骨に、人間の願いの強さに息が詰まる。
 燐が立つこのビルは、完成前の今でも既にこのニューヨークの何処よりも高い。それ程に望まれた―――「天」に近い場所。

 どうせなら、と思ったのだ。
 どうせなら、一番「天」に近い場所から「君」に逢いに行こうと。

 眼下を臨めば、行き交う車と歩道を忙しく埋める人々が見えた。悪しき人もいれば、善き人もいる。猥雑に、けれど一生懸命に、生命と死と希望と絶望に満ちあふれた街―――愛する者が生きる街「ニューヨーク」

 ―――逢いに行くよ、ユキオ
 (―――――さよなら。…メフィスト


 ―――――踏み出した先に、君はいるだろうか

 

 感じたのは先ず衝撃。一瞬置いて全身を声にならない熱が襲った。熱い、痛い、痛い痛い痛い! 余りの痛みに意識が痛覚をおかしな方向でブロックしに掛かっている。手も足もほんの僅かすらも重くて動かせない。気力を振り絞って瞼を無理矢理引き上げれば、自分に影を落とし覗き込むヘルメットを被った人々が見えた。遠くで「救急を!」「何だ?! 落ちたのか? 何処から!」と口々に叫ぶ声が遠雷のように鼓膜に届いた。恐らくトタンで囲まれた工事区域に落ちたのだろう。通行人で溢れかえる歩道や、車道に落ちなかったのは幸いだ。赤くけぶる視界に映るのは建設現場だろう作業着を着た姿ばかりで。
 大丈夫――そう言おうとして、激痛に息も吐けない。意識が勝手に落ちそうになる。それでも、「重い」手足に、「重さ」を感じる事に、燐は気付く――「天使」でいた頃は、重さも痛みも感じなかったな、と。
 「救急車はまだか!」「何か真っ直ぐなもん持って来い! とにかく固定だ」「ああ揺らすな! 生きてるだけで奇跡だぞこりゃあ!」
 入れ替わり立ち代わり誰かが自分の身体に触れていく。もう身体の何処がどう痛いのかも解らなくなってきた感覚の嵐の中で、鉄錆臭い手がくしゃりと燐の髪を掻き混ぜた。壊れたラジオのように途切れ途切れな意識の合間、聞こえたと思った声は錯覚だろうか?

「―――よう兄弟。ようこそ「地上の楽園」へ」

 (地上に降りた『元』天使なんて―――案外あちこちにいるものですからね)

 聞き返す前に―――今度こそ燐の意識は泥に呑まれた。

 


 温かさをくれた
 寂しさをくれた
 優しさをくれた
 切なさをくれた

 恋をくれた君に、愛を差し出そう
 

 

 


 ピッピッピッピッ………

 何処かで聞いた事のある電子音に意識がゆらりと浮かび上がる。
 思考はどんよりと重く濁り、粘ついた水に沈むかに揺らぐ意志を懸命に絞り上げ、何処かも知らぬ先へ手を伸ばした。
 前へ―――君の、許へ。

 君に、逢いに、行くよ


 「……………ハロウ?」
 「―――先生! 先生! 特別室の患者さんが目を覚ましました!」

 こんにちは。君のいる世界。

 


 目が覚めた場所は、当然ながら病院だった。
 地上に降りた――と言うより文字通り「落ちて」、作業員らしい人々に囲まれてからの記憶がぷっつりと途切れている。身体は鉄でも流し込まれたように重く、奇妙に感覚が一枚布越しに触れているかのようなもどかしさを感じるのは、おそらく全身に投与されている鎮痛剤の作用だろう。両足は何か堅いもので覆われて釣られ、右手に巻かれた包帯の隙間からは何本ものチューブが生えている。胸と――多分腰には金属の感触。他にもあちこちとあらぬ所にあらぬ質感があるが、面倒になってきたので考える事を一旦止めた。取りあえずは生きている――生きて、地上にいる。それで十分だ。
 首の後ろにも何か当てられて固定されていて頭を回す事すら出来ないが、じりじりとずらしながら視線を巡らせれば、自分の周囲に大量の医療機器らしい機械が設置されている事が見て取れた。先程聞こえた声は確か「特別室」と言っていたから、それなりに自分は重症なのだろう。「天」から飛び降りたのだから当たり前だ。それでも不思議と自分が「死ぬ」とは考えられなくて、妙に浮かれてきた気分に心が騒ぐ。
 重さと、痛み――腹が妙にすかすかした感覚があるのは「空腹」だろうか?
 「人間」になったのだなぁとしみじみ思う。「痛み」がなくなっても、腹が減っても人間は死ぬのだ。そう言えば自分は何も持っていない。さて此処の治療費はどうしよう、一文無しだと知れたら治る前に叩き出されやしないだろうか? 叩き出されるのも腹が減るのも構わないが、「彼」に逢う前に死ぬのは困るなと決意を新たにしたところで、ほとんど音もなくスライド式の扉が開かれた。
 ―――息が止まる。

「目を覚ましたと聞いたけど………ああ、意識はあるようですね。ゆっくりでいい、話せますか?」

 黒縁の眼鏡。黒子は頬にふたつと口元にひとつ。皺だらけのカッターシャツによれよれの白衣。彼にはサッパリとしたものを着せてやりたい。衣類にアイロンを当ててやれるだろうか? 袖口から覗く手首が一回り細くなった気がする。また食事を抜いているのだろうか。

 ×××!
 自分は「天」を、「神」を棄てて地上に降りたのだ。ではこの「奇跡」は誰に祈るべきだろう?

「僕が見えますか?」

 自分を覗き込むように近付いた、深紅を抱いた孔雀色!

「……ユ、………ユ、キ………」
「ああ、咽の粘膜が乾燥しているのかも。あなたは此処に運び込まれてから十日間意識を失っていました。定期的にケアは入っていた筈ですが……」

 少しだけですが、ゆっくりどうぞ、と、「彼」が傍らに置かれていたらしいボトルを手に取った。口元に差し出されたチューブに恐る恐る吸い付く。舌と咽を濡らしながら落ちていく水分に、懐かしい何かが記憶の扉をノックした。

「一度にたくさんは飲まないで。もう暫く点滴が続きますが、胃腸が回復したら流動食から戻していきましょう」

 離されたボトルを追って、ゆっくりと視線を上げる。合わされた視線に、「彼」が安心させるように笑った。
 初めて「彼」を見つけた日に見た――あの笑顔だった。
 けれど、
 自分が見たい笑顔は、「患者」に向けるものではなくて。

「………またゼリーばっか食ってんのか」
「? え、と………」
「休みくらい、ちゃんと寝ろ」
「………何です?」
「アイロンは苦手」
「―――!」
「コーヒーはアメリカン。砂糖ひとつにミルクふたつ」
「……………」
「甘いキャンディは、嫌い」
「…………あんた、は」

 そうそう、素の「彼」は意外と言葉が荒いんだ

「―――臆病者で、ごめん」

 「彼」が片手で目元を覆う。ああ、折角逢えたのに顔を隠さないでくれよ

 そのまま――数分とも数十分とも知れぬ時間が過ぎて、何かを諦めたかのような投げ遣りな呟きが燐の耳朶を打つ。

「シャツが冷たくて、コーヒーも切れたままで」
「ごめん」
「………お伽噺のさ、魔法が切れたのかと思ったんだ」

 十二時の鐘が、鳴ったのかと思ったんだ
「ごめん」

「こんなとこで―――寝てんじゃねぇよ」
「ごめんな」

 


 それから、「彼」はいろんな事を話してくれた。
 自分の容態は本当に危なかった事。
 墜落現場から鑑みれば他の病院に搬送される筈だったのに、何故か道路が混んでいたり電話が繋がらなかったりで此処に搬送された事。
 救急担当の医師の奥さんが急に産気づいて、昨日からたまたまこちらに詰めていた事。

「そう言えば俺治るまでどんだけかかるんだ?」
「――最低限退院まで三ヶ月」
「そんなにかよ?! 治療費ってどーなってんの……?」
「もう支払われてる」
「は?」
「あんたが搬送された次の日に、『ヨハン・ファウスト』と名乗る人物から振込があった。三ヶ月どころか一年入院したって余る位の金額だったと噂に聞いてる。あんたの治療費に使ってくれと。―――家族じゃないのか?」
「―――いや。知り合い、だ」

 振込とは驚いた。そんな金額を何処からどうやって。大体「天使」の身で「地上」に………「本当」に、「天使」?
 きっと道路が混んでたとか奥さんが産気づいたとかも絶対あいつの仕業だ―――あのおせっかいめ。

 脳裏に回る――黒いステッキ。くまのある道化者が、深々とお辞儀をして見せた。

「とにかく! 今のあんたは絶対安静だ。さっさと直してさっさと退院しろ」
「さっさとって……最低三ヶ月かかんだろ?」
「? ――どうにかなるんじゃないのか?」

 魔法使いなんだろ? あんた、と、「彼」が首を傾げる。
 優秀な医者なのに、何でそんな事を真顔で言うんだ

「無理。無――理! 俺、『人間』だもん」
「そうなのか?」
「そうなの」
「………何だ、てっきりすぐ治るのかと思ったのに」
「医者のくせに無茶言うな」

 子どもっぽいところもあるんだなぁと、またひとつ俺の中で「彼」が増えた

「やべぇ。笑うと腹に響く」
「麻酔が切れたら響くどころじゃないよ」
「ユキオが治してくれんだろ? なら安心だ」
「………!」

 ユキオ?

「どうした?」
「………あんたが知ってるとは思わなかった。ああでもそうか、コレか」

 白衣の胸元に曲がって付いたままのネームプレートを見て、ユキオがひとつ溜息を吐く。

「………僕はユキオ。ユキオ・オクムラ。日本人だから、日本語だと奥村雪男。スノウに、メイル、と書く」
「スノーマンか!」
「………何となく言うと思ったよ……あんたは?」
「?」
「あんたの、名前。……あんたは僕を知ってるかもしれないけど、僕はあんたの名前すら知らないんだ」

 何と呼んだらいいのだと、孔雀色の瞳が雄弁に問うてくる。
 呼んでくれる気がある事に、胸が熱を持つ。

「―――リン」
「リン?」
「俺の名前は『リン』だ。………お前と同じ、ジャパニーズの文字もある。燐――ファイア、と書くんだ」
「―――そうか」

 では改めて――と、ユキオがかろうじて動かせる左手に手を伸ばした。

 

「ハロウ、リン。アイム、ユキオ。マイネーム、イズ、ユキオ・オクムラ」
「ハロウ、ユキオ」

 触れた指先の温もりに、ふたり揃って吃驚してしまった。
 この熱は―――「お伽噺」ではないのだと。

 

 


「……そういやリンのラストネームは?」
「あ―――ねぇかも。忘れた。ずっとリンって呼ばれてたし」
「リンだけだと色々と書類が作れないんだけど」
「じゃあユキオと同じ『オクムラ』でいいや。『リン・オクムラ』――それでいい」
「……………」
「ユキオ?」
「………家族でもないのに」
「じゃあ、『家族』になろうぜ?」


 ―――それならずっと一緒だ。悪くねーだろ?
 ……………まぁね

 

 

 

 

 

 

 

 ―――こんな所にいたんですか。道理で見つからないと思いました
 あぁん? 何でだよ。さっさと昇ってくりゃよかったじゃねぇか
 とっくに貴方は門をくぐったと思っていたのですよ! まさかその手前にいるだなんて誰が思うものですか!
 何言ってんだお前
 ?
 一緒にくぐりゃいいだろうが
 

 ………あの子達は、「幸せ」になりますよ。燐も、雪男も
 あー悪かったな。任せっぱなしで
 ……いいえ、それが貴方との「契約」ですから
 そうだな
 ええ
 じゃあ「契約」通り、俺の「魂」をお前にやるよ、「サマエル」。有り難く受け取れ
 ………あんまり有り難くもないんですけどねぇ?
 相変わらず素直じゃねぇな、お前