廃園

一次二次創作を含む世迷言です。何でも許せる方のみどうぞ。あくまで個人的な発言につき、転載、引用はお断り致します。

【青い悪魔は笑う羊の夢を見るか?】

※同人誌Web再録
 青い悪魔は笑う羊の夢を見るか?

 

 

 

 

 

 

 

 「いっそ死んでくれ」

 いつかの言葉をお前が本当に望むなら、
 その引き金はちゃんと自分で引いてやるよ
 大丈夫、
 「兄ちゃん」はお前の手を汚させたりはしねぇから
 

 

 

 

 


 悪魔とは何て愚かないきものなんだろう、と
 この夜ほど思ったことはない

 


 すっかり温もりをひそめた風が、色褪せてかさついた落ち葉をひらりひらりと踊らせつつ、取り立てて目に留まるものもない小路を行き通る十二月。
 「悪魔」として覚醒したあの春から幾つもの季節を過ごしたとはいえ、その体感感覚が幼い頃から馴染んだ「人間」としてのものに添う事に、彼は心の奥底で小さく喜びを感じる。幼かった日、弟と二人手を繋ぎながら「息が白いね」「怪獣みたいだね」と笑いあった事。雪玉を転がして雪だるまを作り、小石や枯れ枝を埋め込んで何とか会心の作になったものの、皮膚が薄いのか手袋をしていてもすぐに赤くなってしまう弟の手を両手で包んではあはあと息を吹きかけた事。冬物の衣料は貰い物が多かったから、弟となかなかお揃いという訳にはいかなくて、弟はその大きな孔雀色の瞳を部屋の隅でしょんぼりとさせていたけれど、手袋やマフラーなど無骨な修道士達でも手作り出来る品は当然のように二人お揃いで作ってくれていたから、「一緒だね」「一緒だな!」と義父達に怒られるまで雪の庭を走り回った事。

 寒く冷たい筈の「冬」という季節を、温かいものとして思い出せる「奇跡」

 ──「ひと」としての思い出は常に隣にいた「弟」と共にある。楽しかった事、哀しかった事、優しくしたいと思う気持ち、優しくされて嬉しかった事、夜遅く忍び込むように修道院に戻った自分を、いつだって目尻を下げて出迎えてくれた顔、「しょうがないなぁ」と言いながら怪我をした腕にくるくると包帯を巻いてくれた手が少しかさついていて、それでもじんわりと温かかった事、嬉しかった事、喜ばせたい、と思った事、こっそり練習を重ねて上手に作れるようになった卵焼き──「弟が喜んでくれた事」が「嬉しかった」事。

 「おいしいね、兄さん」
 そんな言葉ひとつが聞きたくて、そんな言葉ひとつで嬉しくて「幸せ」になれた、脳裏に巡る、温かくて懐かしい──そしてほんの少し心の何処かが切なさにじくりと痛む、そんな「冬」の記憶。
 
 ──おいしいね

 思えばあの年頃から自分は料理がしたくて台所に立った。小さかった自分の身長に修道院の古い作り付けの台所は到底高さが合わなくて、最初は食堂用の椅子を洗い場まで引きずってはよじ上った。段々と身長が伸びていくにつれ、それはいつしか段ボールになり、踏み台になり、そうしていつの間にか修道院の誰よりも台所に立つ日が多くなった時も、その理由はいつでも「弟」の為だった。熱を出して唸っている弟にせめて林檎くらい食べさせてやりたくて、子どもの手には大き過ぎる包丁を両手で握りしめたのが懐かしい。そうして思ったよりも小さくなってしまった林檎をガラスの器に入れて、具合の悪い時には下段で休む「弟」の顔をそっと覗き込めば、彼はいつだって薄く目を開けては「にいさん」と気付いてくれた。そうして自分の剥いた不格好な林檎をゆっくりゆっくり齧るのだ。全部は食べられなくとも、「あとでたべるからのこしておいてね」何時だって「弟」はそう言って、翌朝すっかり色が変わって茶色になってしまった不味そうな林檎を残さず食べ「ごちそうさま。おいしかったよにいさん」と笑ってくれたのだ。

 ──おいしいね

 そんな言葉ひとつが彼をどれだけ喜ばせたか、きっと今でも「弟」は思いもよらないに違いない。修道士達や近所の子ども達に怪我ばかりを負わせてしまっていた自分に向けられた「御礼」の言葉。誰でもない「弟」が「おいしい」と言って「ありがとう」と言ってくれた事。
 「おいしい」と、「ありがとう」と言ってくれるなら、その「おいしいもの」は自分が「弟」に食べさせてやりたかった。義父でも修道士でも他の誰でもない、自分が「弟」を喜ばせてやりたかったのだ。

 まだ二人ともランドセルを背負っていた年頃までは、今思い返せば幼いながらも悪魔が視える事によってその瘴気に当てられる事も多かったのであろう、転んでもぶつかってもかすり傷ひとつで済んでしまう自分と違って、「弟」が体調を崩して寝込んでしまう事は多く、「弟」の布団に包まり、「弟」の匂いに包まれながらも一人で手足を丸め、不安が消えない夜は辛かった。自分が弱い顔をすれば余計に「弟」に心配をかけてしまう、だからいつも「だいじょうぶだ! すぐに治るからな! そしたらまたいっしょにあそぼうな!」と笑ってみせていたけれど、義父の言う「すぐ治る」を一番信じられないのが自分で、「弟」がこのまま治らなかったらどうしよう、もしも「にゅういん」する事になったら、もしも「弟」が自分の傍から離されたら、もしも──もしも、「弟」がいなくなったら──下段から少しでも呻き声が聞こえれば、夜中であっても布団を跳ね飛ばしてベッドから飛び降りた。「ゆきお、だいじょぶか。とうさんよぶか?」小さかった自分にも、苦しむ「弟」に何もしてやれない事くらいはわかっていた。温くなったおでこのタオルを絞り直して、額の汗を拭って、何故かひんやりと感じる手を握って、それだけだった。小さな子どもでしかない自分には、義父のように苦しむ「弟」の為に薬を準備してやる事も、その熱や苦しみを代わってやる事も、せめて一緒に苦しんでやる事も何も出来なかった。けれどこんな夜中に義父達を起こす事は迷惑になる、雪男は聡い子どもだった。だからいつでも「弟」は小さく首を横に振って言うのだ。

「兄さんの匂いがして安心するからへいき。でも後ちょっとだけ手をにぎっててくれる? あったかくて気持ちいいんだ、兄さんの手……」
「なっなら一緒に寝てやるよ! そしたらもっとあったかいだろ!」
「そんな事したら兄さんにもうつっちゃうよ」
「だいじょーぶ! おれは兄ちゃんだからな! ほら、ちょっとそっち詰めろ」

 枕を取りに戻る時間も惜しくて、そのままめくり上げた布団の隙間から身体を押し込ませ、手も足も身体全部を使って「弟」の身体を抱き込めば、「くっつき過ぎ。苦しいよ。それに…」向かいあった腕の中で「弟」が一生懸命腕を突っ張ろうとしていて。

「何してんだ? すきまあったら寒いだろ? いいからもっと兄ちゃんにくっつけよ」
「……ぼく、今日おふろ入ってないから……」
「熱あるんだから当たり前だろ?」
「……くさくない?」
「何言ってんだ? ゆきおはいつでもいい匂いだぞ! ほら!」
「苦しいってば! にいさん!」

 ぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめて、伝わって来る体温と共にふわりと立ち昇るかのような「弟」の匂いを思いっきり吸い込む。微かな汗と皮脂の匂いに混じる「弟」の匂いがずっと前から燐は大好きだった。
 甘くて、優しくて、安心する匂い。小さな頃から、それこそ記憶の最初にあるのは、きらきらした孔雀色と、懸命に伸ばされる小さな手、離れているのが不思議に感じた程に合わさった体温、そして誰とも違う「弟」の匂い。
 いつだって傍で笑ってくれていた「弟」がいてくれたからこそ、燐は雪男の「兄」であり「ひと」でいる事が出来たのだ。

 「弟」を「守る」こと──痛い事や怖い事や苦しい事から。
 そして「弟」の「兄ちゃん」でいる事。

 それは、彼が無意識下に自分自身に約した「約束」だ。
 理由もなく信じていた、そうしなければと思っていた、そうあるべきと思っていた。ただ「庇護」の対象という訳ではない。あの頃の彼にとって「弟」は「全て」だった。「弟の兄である自分」が全てだったのだ。

 たったひとつ、たったひとり、守りたかった「全て」、守りたかった「弟」
 
 「弟」を抱きしめて眠る夜はいつだって安心して眠れた。「苦しいよ」と文句を言いながらも「弟」も不思議とそれ以後は咳き込む事もなく眠れていたようだったから、朝方二人を起こしにくる修道士に怒られながらも、自分は「弟」の寝床に潜り込む事を止めなかった。
 「弟」の甘い匂いが、優しくも温かい体温が、二人一緒である事が当然なのだと、そんな風に言ってくれた気がして。
 
 何時だって自分を揺り起こす優しい記憶、生きている、温かい体温。
 生きていて──温かい。それだけで、泣きそうになるくらいに自分に喜びをくれるひと。
 「幸せ」を、教えてくれた、ひと。


 保温性に優れたウインドブレーカーを着込み、喉元まできっちりとファスナーを上げてすら、その隙間から入り込む冷気に身をすくませる事など珍しくもない季節だが、終電も過ぎた深夜、人外の怪力を誇る自分にとってすら背中に感じるしっかりとした存在と、冷えた肌に時折掠める吐息にどうしようもなく鼓動が踊って、気まぐれのようにうっすらと雲がけぶる月明かりの下、燐は行き交う影もない路上を静かに歩きながら、白い吐息を零してひとりひっそりと微笑んだ。

 


 未だ場所によっては秋彩を留めている時節であっても、カレンダーが一枚めくられてしまえば、街は不思議と途端に電光色のイルミネーションに染め上げられてしまう。
 昼間からの任務が思ったよりも長引いてしまい、名目上とはいえ上司直々の呼び出しともなれば顔を出さない訳にもいかず、かといえ人様の目もある中、只人も出入りする小料理屋に「鍵」で突然出現という訳にもいかない。これが悪魔の群れのまっただ中というのであれば本能と直感に任せ自然と身体は動くものの、仕事帰りなのかせかせかと足早に交差点付近にごった返す人並みに、何とかぶつからぬよう縫うように駆け抜ける最中、嫌が応にも目に止まる赤や黄金、緑などの所謂クリスマスカラーと呼ばれる色彩が日頃暗闇に慣れた目に眩しい。その名前だけ見れば野山を彩る紅葉とさほど変わらぬものである筈なのに、何処からか、いやまるで街中が歌っているかに思わせる、クリスマスソングのメロディーに合わせたかのように流れて光るきらびやかなライトに照らされた人工的な輝きは、秋の風情など何処吹く風と、その与える印象は全くと言っていい程違うのは何故だろう。
 何時しか耳に馴染んでしまったクリスマスソングは、幼い日にお揃いの黒い礼服を着せられ、修道士のオルガンに合わせて弟と二人、間違わないようにと緊張しながら歌った賛美歌のそれではない。クリスマスという行事そのものが本来彼が育ち教わったものとはすでにその意味の違えたものとなり、何処かの店頭から漏れ聞こえてくるメロディーは、何時だったか同僚が言うには自分達が生まれる前から繰り返し流れているのだと聞いたものだ。
 ──雨が雪に変わってもきっと君は来ないのだろう。一人きりの聖なる夜に……、何時まで待っても待ち人は現れないだろうと歌う、自分には到底ハッピーエンドには思えないその歌が、どうして何年も歌い紡がれているのか燐にはよく解らない。来ないひとを待ち続けるのはきっと寂しいだろう。虚しくはないのか。それが愛しているひとなら尚更。来ないと知っているならどうして、それでも待つのか。待つ事を諦められないのか。そうして、もし待ち人が来てくれたなら、その時は──。
 
 もしも──もしも燐の待ち人が「弟」なら……。

 そんな事をふと考えて、燐は走っていた足を止めてゆっくりと首を振った。
 自分がこのまま──「弟」の「兄」でいられたなら、「弟」はきっと自分の傍にいてくれると信じたい。自分がヴァチカン預かりとなり、その身体の距離は遠く離れていた時も、遠慮するように2~3コールで切れてしまう携帯の呼び出し音に、昔と同じ、少し目尻を下げた困り顔が、何時だったか合同任務の打ち合わせ中にこっそり撮った待ち受け画面に重なる「着信/雪男」の文字に思い浮かんだ。「これから任務なんだ、ごめんな」と届かない応答を返して、履歴に残る名前をお守り代わりに任地へ向かっては、「悪ぃ悪ぃ、寝てて気付かなかったわ」と払魔後の汚濁に塗れた指でそろそろとタップ画面を押して、何度わざとらしい寝惚け声を作ったかなんてもう覚えていない。時には流し過ぎた出血に意識を失いそうになりながらも、「シュラさんから聞いてるよ。頑張ってるんだって?」とそんな台詞を聞けば、「あったり前だろ! 俺は聖騎士になるんだからな!」と空元気でも笑えた。
 魔剣倶利伽羅を操る騎士として祓魔師資格を得たとはいうものの、ヴァチカンという正十字騎士團総本部にいてこそ尚更、「悪魔との混血」「サタンの落胤」と燐への対応はあからさまな侮蔑と差別と憎悪に満ちたものだった。新人だからと囮に使われるなど日常茶飯事であったし、「悪魔だったらすぐ治るんだろう」と、怪我の手当すら碌に行われず、あまつさえ傷口に聖水を掛けてくる者さえいた。ヴァチカン本部での監視者として当然それらの所行はシュラの耳にも入り、シュラとて本部を通して色々と手は尽くしたが、結果として燐はシュラの行動を止め、現場が飽きるに任せた。
 シュラが動けばいずれ雪男にもヴァチカンの現状が知れる。元々燐の監視員としての任務もこなしていた「弟」の事、ある程度の事は予想しているであろうが、それでも、七歳の頃からその手に銃を持って護った「兄」が、自らの所属する組織によって理不尽な扱いを受けている等とは知らせたくなかった。
 「弟」の前ではいつだって「能天気で頑丈なだけが取り柄の馬鹿兄」でいたかったのだ。
 時折行われる合同任務の場ではへらへらと笑い、相変わらずだねと「弟」に心配を掛けた。「それだけ」でよかった。「それだけ」でいたかった。

 いずれ、自分が「兄」として「弟」の元に戻れる日まで。
 そしてそれは数年後、燐が「兄」として最も望む結果と、諦めきれぬ絶望と共に叶えられる事となる。

 もういつの間にか歌詞も覚えてしまった古いクリスマスソング。
 きっと君は来ない、けれど、もし、もしもその時は──。
 
 秋の色彩がどこか物悲しさを感じさせる郷愁を漂わせているのに対して、十二月のそれは、不思議とひとを急かしめす騒がしさだ。
 ──大切なひとに、逢いたい。逢わなければ。
 そんな気持ちに背を叩かれて、慌ただしく携帯の画面に向かう恋人達は、今この瞬間どれだけの星を見上げているだろうか。悪魔にしたって逢いたいひとがいるのは同じだ。集合場所だと知らされた店まで後少し、事前に知らされたメンバーには誰より逢いたい「弟」もいる筈で。
 ──後、少し。正十字学園町を離れた任務が続いた所為で、数日ぶりに顔を合わせる事になる「弟」は、自分がいない間ちゃんと食べていただろうか、最近は随分変わったのだと椿や湯ノ川から聞いてはいるけれど、また以前のように予定をすし詰めにしていないだろうか、ちゃんと休んで──眠って、笑っているだろうか。
 携帯のバックライトに光る地図の誘導によれば、目の前の四つ角を右に曲がれば後は直線の筈だ。それほど大きくない店でもさすがに看板くらいは出ているだろう。そうじゃなくても、昔から不思議と「弟」の居場所だけは見つける自信がある。
 ──後、少し。ピッチを上げて駆け抜けた團服がふわりと風を巻いて、道行く人々の髪を突風のように吹き上げては消えた。

 


 当然万年人員不足を訴える正十字騎士團の面々にも変わらず十二月は訪れる訳で。
 家族がいる者はプレゼントに頭を悩ませ、恋人がいる者は来たるべき聖夜の段取りにこれまた頭を抱える日々の中、生憎十二月だからとて特別色恋めいた用事もなく、いつも通りに職務をこなしていた祓魔塾同期の独身集団面々は、折角の非番前夜をヴァチカンと日本を行き来する上司兼先輩の相手に勤しむ羽目になっていた。尚、女性陣においては朴事務員の手配の元、話題の小綺麗なイタリアンバルで女子会なるものが開かれていた事を勿論某京都出張所所属の騎士は知る由もない。もし良ければと勝呂と子猫丸にはそれぞれ連絡がいったようだが、今も親交厚い二人が誘いを断りこの修羅場に腰を下ろす理由と言えば、ここは腐れ縁を優先すると言うよりも、単純に未だ性根の変わらぬピンク頭の幼馴染みによる動向への心配がそれを上回っただけであった。ちなみに某所で可愛らしく女子会なるものが開かれているというのに、自称20歳の女性上司が飲み会の言い出しっぺだという事実には突っ込んではいけない。人間誰しも似合いの巣があるものなのだ。
 「寂しい独りもんはせめて酔った勢いで砕けに逝ってこーい!にゃはははは~!」と豪快に笑う霧隠シュラ率いる特別上級一隊は、明日(と言うよりもう今日か)は日本支部で待機及び新型銃器の稼働耐久試験の予定だが、無論ヴァチカン本部勤務所属上級監察官ともあろう者が職務に影響を残す程の量を過ごす筈もない。
 にも関わらず、「それ全然救いがありませんやん」「お、俺は彼女います! 出来ました!」「お前だけが盛り上がってるだけやろがボケェ!」などと果敢に抵抗する元候補生上がり+同期生兼塾講師陣を次々と潰してのけ、座敷の片隅に正体なく積み上げた屍を、「僕はこれだけで」と言いながらも同じだけの酒量を平然と空けてみせた竜騎士に押し付けたのは、果たしてイベントシーズンの侘しさを労ってやろうとした思いやりなのだろうか。燐が遅れて現場に到着した頃には、常より酒豪を誇る上司の同席にて胃の腑が鍛えられている情報管理部広報担当兼祓魔塾講師をこなす竜騎士は、普段と同じく一歩控えた態度で酔いのかけらも見せずに穏やかに微笑んだまま、中毒を起こしていたり咽を詰まらせたりといった者がいないかどうか淡々と様子を確認した後、まるで築地の流れ作業のように彼等をタクシーに投げ込んでいたが。
 「弟」だけが少し離れた場所で寝かされていたのは、単に酔っぱらいの保護者がいるかどうかの差だけではないだろう。シュラ同様に大概年齢不詳で通っている竜騎士にとっても「奥村雪男」は祓魔塾講師同期というだけではなく、彼が小さな頃からその成長を文字通り見守ってきた「生徒」の一人でもある。集中力はあっても年齢と体格に恵まれず、すぐに根を上げてしまうだろうと思われていた小さな候補生は、ただ一重に本人の努力だけを持って、気が付けば「竜騎士」に「医工騎士」と自分を越える称号を得て、正十字騎士團最年少祓魔師資格記録保持者となっていた。身体に合わない大きなランドセルを隣に置いて、厚いレンズの眼鏡を一生懸命に直しながら、懸命に板書きをノートに書き写していた少年はもういない。

「燐君達はどうする? 君はあまり飲んでないようだからいいけど、奥村先生がそれじゃあね。君達のマンションまでここからは二駅程度だけど、よければ途中まで乗っていくかい?」
 なんだったら送っていくよ、と、タクシーのドアに手を掛け振り向いた佐藤の言葉に、自分の胸元をしっかりと掴む手にそっと視線を送った後、燐は静かに首を横に振った。

 シュラに負けじと言い返しながら、実は最後まで教え子を庇って杯を干した雪男は、主犯に次いで摂取したアルコールが覿面疲れた身体に効いたのか、燐の背に正体無く背負われたまま、すうすうと健やかな寝息を立てている。
 青みがかった燐の髪とは少し色味の違う、少し焦茶色の混じった髪から覗く柔らかそうな耳たぶと、前に廻されたままきゅうと燐の上着を掴む白い手が赤く染まっていなければ、二十歳もとうに越えた大の男二人のそれはどこか微笑ましいくらいの光景で、とても正十字騎士團上二級祓魔師と、祓魔塾悪魔薬学担当講師という激務を兼任する強兵とはまるで見えない。

「──いや、俺は酔い覚ましにこのまま歩く事にするわ。気持ちだけ貰っとく。ありがとうな、佐藤センセ。二駅っつってもマンションまでそう遠くもないし、散歩には丁度良いくらいだ」

 後で雪男にはがっつり貸しを倍返しにしてもらうんだから、俺が言ってたってーのは内緒な?──「弟」の事となると途端に過保護な「兄」の台詞に、彼等の抱える特殊な出生を知ってはおれど、相変わらず兄弟仲の良い事で、とは心の中でだけ呟いておく。

「本当に大丈夫かい? 幾ら燐君が力持ちでも、意識のない人間の身体は重く感じるよ?」
「化灯籠より軽い」
「あ、それは確かに」

 面白がる様を隠そうともせずに、何だかんだと燐が候補生の頃から付き合いのある佐藤が笑う。初めて会った頃とまるで変わった様子がないが、思えば佐藤とも長い付き合いだ。そう言えばそろそろ結婚なんかの話も聞こえてきたとておかしくない年齢であろうに、任務となればもはや専用グッズと化したスピーカーを持って、相も変わらず作戦の説明も碌にしない上司のフォローに回っているのはもはや見慣れた光景だ。
 「祓魔師は年中人手不足」──ある意味佐藤もその被害者の一人であるに違いない。

「途中で起きたならポカリとか飲ませておくけどさ、他に何か気ぃつける事はあるか?」
 取りあえず身体ん中のアルコール抜きゃあいいんだろ? 
「奥村先生の事だから大丈夫でしょう。飲み会が始まる前に自分で薬も調合して飲んでたみたいだしね。大体医工騎士の資格持ってるんだから、僕よりよっぽど奥村先生の方が専門だよ。飲酒後に体温が上がっているのは本人が感じているのよりも短い時間で、それを過ぎたら逆に下がるから、面倒がらずに温かくして寝るように伝えて」
「それは任せろ」
「さすがお兄ちゃん。でもそう言えばそうか、家事は君の方が得意だったんだっけ。天才祓魔師も万能じゃないっていう良い見本だね。燐君も丈夫だからって油断しないようにね」
「ああ、さんきゅ」
 
 それじゃ、と片手を上げてタクシーに乗り込む佐藤を視線で見送り、背中におぶった大柄な身体をよいせと背負い直す。学生時代は体格で負けていたものの、高校時代を過ぎて俺の能力と比例したのか、今では弟よりもわずかに越えた身長を確保した。團服の肩周りが少しキツく感じて、最近ちょっとは身長が伸びたんじゃねぇかなーと思っていた矢先に弟と顔を会わせる機会があり、何年ぶりかに弟を見下ろす事の出来たあの快感と「兄の威厳の復活」の喜びは、きっと自分と同じ屈辱感を味わった者でしかわからないだろう。身体全体を引き上げて結構な勢いで揺れた体駆に、もしや目が覚めて自分で歩いてくれるかとも思ったが、ショートスリーパーの癖にあれで以外と寝起きの悪い弟は、「……んんぅ」と小さく唸ってより目の前の温かみにしがみついてくる有様だ。
 その優し気で大人びた外見に似合わぬ指導の厳しさ容赦のなさから、歴代の候補生達より陰でこっそり「鬼先生」と字される弟の事、彼が正気の時にはけして見せてくれない緩んだ姿が、無意識にでも「兄」に甘えてくれているのかもしれないと思うと、自惚れてはいけないと自制しつつも、どうしようもなく嬉しくて燐の口許が緩む。

 

 ──いつからかなんて、覚えていない
 ──自覚した時には、もう引き返す事なんて出来やしなかった

 勉強以外、人並み程度に一通りの事は出来るが、生来他者の気持ちを想像する事が不得手で、自分でも制御出来ない力と感情の奔流に流されて、幼い頃から何処にいても周囲から遠巻きにされていた自分に、理由とも言えない理由をつけて、真正面から向かって来た──彼。たったひとりの——「弟」

 人付き合いが下手な自覚はあったが、それでも構わないと思っていた。
 何やかやとちょっかいを出して話し掛けてくる和泉に、隣で溜息を吐く長友、呆れ顔で煙草を吹かす義父と数人の修道士達、せいぜいそのくらいしか自分の周囲に知人と呼べる存在はいなかったけれど、「弟」がいてくれたから別段他者に対する寂しさも不都合も感じる事はなくて、何となく自分は「このまま」なのだと思っていたのだ──弟—「雪男」がもしいなかったなら。

 小さな頃は泣きながら自分の後ろをよたよたと付いて歩いていた弟が、いつからか真正面から自分を見据え、怒鳴り、目を吊り上げて怒ったり、膨れっ面をして小言を言ったり。それは、外では「修道院の良い子」を装い、近所との諍いややっかみを少しでも減らすべく「弟」が覚え身につけた筈の「世間体」とは違う、「家族」にしか見せない「そのまま」の顔。
 何度言いつけを破っても諦めずに繰り返し迎えに来ては、兄弟だからと自分の手を引いて、こっちを向けと首をねじ曲げる。
 それは、強力な引力さえ感じるエネルギーだった。
 
 始めは「仕方ない」と勝手にさせていた治療が、次第に楽しくなり、待ち遠しくなった。待ちきれずにわざと自分から喧嘩を吹っ掛けて帰った時には、常人ならば全治二週間は掛かるだろう惨状に、しばらく弟が口を利いてくれなくなった事もあった。
 単に強さを誇って喧嘩に勝ちたかったのではない。逆に、幼い頃から自分の人外じみた力を自覚していたから、叶うならば誰とも争いたくはなかった。それでも、彼に自分を見続けて欲しくて、ずっと追いかけてきて欲しくて、だから負けたくなかったし負ける訳にはいかなかった。

 勝ち続けなければ、追ってはくれまい。面倒を掛けている、心配を掛けているという自覚もある。そんなくだらない事で自分への「感情」を計るなんてとみっともないと、脳裏で嗤う自分がいる。けれど、料理の他に何物の価値を持たない自分を置いて、今度は弟は誰を追いかけるというのか。

 顔なんて見えないもやもやした黒い影に向かって、「兄さん」と雪男が笑う。突き出した手を弾かれ自分以外の者に引き寄せられる弟の姿に、思考より先に手を延ばしたところで目が覚めて、背中をじっとりと湿らせた汗に自分の中の「欲」を知った。
  長い人生とは言えない年齢であっても、今まで自分の性的趣向は女性に向いていると思っていたし、実際義父の部屋から肌も露なモデル達が並ぶ雑誌を拝借し、その恩恵に預かった事も一度や二度では済まない。何せ肉体的な快楽を覚え始めたばかりの年頃だ。夜中にこっそりと風呂場で下着を水洗いする姿を義父に見つかった時には、「お前もそんな歳になったんだなぁ」と妙ににんまりと笑われた。男なら当然の事だ、誰にも言いやしないから、ざっと洗ったら汚れ物の籠の奥にでも突っ込んでおけと、暗い廊下でそんな会話を交わした記憶が懐かしい。淡泊どころかがっつき気味な自覚はあった自分の嗜好が同性へと変化したのだろうかと、それなりに整った顔立ちをしているアイドルなんかを恐る恐るテレビ画面に眺めてみても、別段息子が反応するような事もなく。弟を女性として見ているのかと思い巡らせば、それは即時に否と感情よりも早く思考が断じる。
 色白だから、柔和だからと彼を特別に思う訳ではない。彼の優しさは「女性らしさ」とは全く別のものであったし、「らしさ」で言うならばひ弱だった自分を恥じたのか学校に入った頃から急に身体を鍛え出し、当時兄たる自分をも追い越す身長を備えた弟は、逆に誰よりも「男らしい」と言えるだろう。

 誰とも違う、「雪男らしさ」が愛しいのだと。

 結局「男」だとか「女」だとかは関係なく(女装して欲しい訳ではないが、たとえ弟に女装趣味があっても嫌悪は感じなかったし、実は妹だと言われたとしても、どっちでも構わないと思ってしまった。後に弟の女装姿を見てしばらく動悸が煩かった事は墓場まで持って行く秘密だ)、ひとりの「ひと」として「奥村雪男」が愛しいのだと──欲しいのだと。
 記憶の中で柳眉を上げて怒り、そして目尻を下げた困り顔で笑う彼を思い出す度に、ずくりと疼く熱を自覚して嘲笑った夜。

 

 


 学習塾での泊まりがけの合宿だと言っては(今思えばあれは任務だったのだろう)雪男の戻らない一人きりの部屋で、「弟」が寝間着代わりにとよく着ているくたびれたスエットに顔を押しつけ、何度暗い部屋で毛布を頭から被った事だろう。汗の匂いに混じった「弟」の甘い匂いに頭の芯がくらりと傾いだ。何度も繰り返した行為に待ちきれず性急にハーフパンツの中へ手を突っ込めば、そこは下着越しにもわかる位にその質量と興奮を主張していて。わざと直接は触れずにじめった布越しの感触を堪能する。自分のものに触れているのは誰の手だ? そして自分の手が触れているのは誰のものだ? 覆われ息苦しい空間の中、籠った体温と熱に「弟」の匂いが満ちてゆく。つるりと剥き出たのであろう亀頭の先にぐりりと親指の先を擦り付ければ、痛みにも似た快感がフラッシュのように白く瞼の裏を灼いた。思わず目の前のスエットを噛み締める。口の端からたらりと粘液が一筋伝う感触。「弟」もこんな事をしているのだろうか。自分と双子なのだから、年齢的にもしていておかしくない筈なのに、不思議と想像が繋がらない。真面目で、何事にも一生懸命に取り組む品行方正な優等生が、大人に成りきれない性器を自ら弄くり、悦楽に喘ぐ。オカズには何を想像するのだろう、弟が義父が所持するようなそんな雑誌
に興味を示すところなど見た事がない。下着は既に漏れ出した先走りでぐっしょりと濡れそぼり、今か今かと解放を待ちわびている。こういうのは出来るだけ長く我慢した後の方が気持ちいい。雪男も我慢したりするのだろうか。息を殺して、顔を赤らめて、背中を丸めて唇を噛み締めながら誰の名前を呼ぶのか。

 (にいさん……)

 不意に脳裏に響いた声に、後頭部がかっと熱くなる。一気に噴き出した汗が、汐が引くように熱気と共に引いて、犬のように小さく呼気を区切りながら吐き出す息だけが荒い。

 (──兄さん)

 ゆっくりと口元から「弟」のスエットを離したところで、ようやく張りつめていた力が抜け、覚えのある脱力感と倦怠感が全身に重しを掛けたかのように圧しかかる。下着を着けたまま吐精した所為でにちゃりと肌に貼り付く布地の感触が気持ち悪い。引き出した両手を乱暴にそのままハーフパンツで拭う。どうせこれから一緒くたに洗うのだ。構うものか。
 漂う饐えた独特の匂いと、噛み締めて涎塗れになった「弟」のスエット。常識とやらに当て嵌めてみれば、到底イコールになりえない事などとうに知っている。それでも止められない。例え都合の良い妄想だと解っていても、「弟」の自分を呼ぶ声に、吐息だけでその名を呼び返す。
 (………ゆき、お)
 いつだってそう、無視など出来ない。出来る筈がない。
 ──あれから、どれだけの時間が過ぎたのか。

 

 度重なるヴァチカン総本部での審議紛糾の末にようやく祓魔師としての資格を手にし、形なりとも正十字騎士團に忠誠を誓う事でひとまず処刑措置の無期延期を勝ち取ったあの日──燐は、ひとつ確信をして、ひとつ諦めた。

 離れていればいずれ──忘れられるかと思っていた想いは、燐が試験期間としてヴァチカン預かりとなり、彼──「弟」の姿を見なくなって数年が過ぎてもまるで変わらなかった。
 報告書で弟の名前を見る度に、たまの合同任務でその姿を見かける度に、その無事を喜び、その様を追って、そうして、じりじりとしながら待っていたのだ。自分が弟に追いつける日を。七歳の時から修行を始めたという弟の横に祓魔師として並ぶその時を。
 そして自分が、中一級祓魔師兼祓魔塾剣技講師として日本支部に配属されると聞いて。

 燐は確信したのだ。
 きっと自分はこのままだ──このまま、「弟」を好きなまま。
 我ながら信じられないくらいに育った執着は、もはや自分自身ではどうにもならない。このままきっと、「弟」を愛したままで生きていくんだろう──ひとりで。
 そして諦めた。
 いつか、弟がそれを望んだ時には、弟の手を離してやるつもりだった。自分を守る必要などないと、笑って彼の道に送り出してやるつもりだった。そう出来ると思っていた。そうしなければならないと思っていた。

 でも、きっと出来ない。

 「弟」の幸せを誰よりも祈っている。けれど、いずれ自分は「弟」を傷付けるだろう。傷付けてさえ、きっと手離せない。燐が雪男を傷付ける事そのものに、雪男が傷付くのだろうと解っていても、それですら──雪男の傷を、自分は喜んでしまうだろう。なんて浅ましい恋情。
 これが「悪魔」か──これが「奥村燐」の愛し方か。


「こうしてゆっくり顔を見るのも久しぶりだね、奥村燐中一級祓魔師殿? 僕は奥村雪男上二級祓魔師、君の監査役を兼ねるけどよろしくね」

 記憶にあるより幾分髪が伸びた彼は、耳馴染みの良い声できっちり自分の名を呼んで、おどけて片手を差し出してみせて。
 今やほとんど変わらなくなった身長の所為で見上げる事もなくなった、こればかりは彼が小さな頃から変わらない孔雀色の瞳を見つめながら、燐は一言しか言えなかった。

「久しぶりだな、雪男」

 ──たった、それだけ。

 

 数年間離れていたぎこちなさはあっと言う間に兄弟に馴染み、日本支部に馴染んだ。燐が日本を離れていた間、かつての同期達はそれぞれの場所でそれぞれの立場と責任に向き合い、候補生の頃とは違う「祓魔師」として生きていた。母親が健在な間はと、祓魔屋を抱える筈のしえみも中二級手騎士として騎士團に所属し、祓魔活動こそしないものの事務員として働く朴と仲良くやっていて、そして燐帰国の報が回ったその翌週には京都出張所の面々が来て大騒ぎになるなど、燐が日本支部に戻って数週間の後には、まるで始めから燐のヴァチカン預かりなどなかったかのような空気が出来上がっていた。
 任務中は候補生時代と変わらず敬語で話す「弟」に、まるで急に距離を置かれたように感じて苛立った時もあったが、作戦方法について燐に意見する時などは変わらずあの強い視線で真っ直ぐに自分に向かってきてくれていたし、馴れ合いでは済まされぬ戦闘現場を雪男と共に走り抜いてきたのが、燐より一足早く期間限定とはいえヴァチカンから正式に日本支部に配属されていたシュラだと聞いてからは、さもありなんと納得もした。彼の女傑も義父と同じく、誰よりも「らしい」騎士團祓魔師であったから。

 「あの時は僕も焦ってたんだよね」と、昔は見る事もなかった穏やかな笑みで頭をかく弟を、相も変わらず日本支部支部長として居座るメフィストに捩じ込み強引に同隊に組んでもらって数年。
 誰にも真似出来ない伸びやかな変化と強さで、ともすれば自己中心的に走りがちな燐のバディとして的確なバックアップをこなし、揺るぎない立ち位置を保持している彼を、日々の訓練の中で、苛酷な祓魔現場で、笑う慰労の席で、何でもない一時の中で──自然と二人並んで過ごした時間の中で、どれだけのものを隠して見つめた事だろう。

 

 こうしたたわいない飲み会の事後ですら、酔い潰れてしまった「弟」が、燐の背に全てを預けているかのよう、その重さを預けてくれているのが嬉しくてならない。頑是なく込み上げるこの気持ちに、一体何と名前を付けたらいいのか。
 
 起こさないようにそっと顔を覗き込めば、動いた拍子に襟元に忍び込んだ冷気が寒かったのか、上着を掴む手はそのままに、するりと雪男が頬を擦り寄せてきて。

 頬に触れた思いがけない温かさと滑らかな感触に──ふつり、と、燐の中で何かが切れた。

 そのまま擦れ合わすように頬を滑らすと、首を巡らせて緩く開いたままの「弟」の唇に触れる。
 二度、三度と啄むように触れ合わせて、彼の目が開かないと見るや、彼の身体を片手だけで支え、明確な意思を持ってその後頭部を引き寄せて。
 触れるだけ──とぎりぎりの理性で抑えた筈の欲求は簡単にその枷を外し、もはや気のせいではなく甘く感じる咥内を十分に味わった後、名残惜し気に去り際もう一度その唇を舐め上げた。 
   
 至近距離に見る「弟」の寝顔にどうしようもなく愛しさを掻き立てられて、思わず再び口寄せようとしたその瞼が開くとは。
 自分とは色味の違う孔雀色の瞳が嫌悪に歪むのを見たくなくて、燐は咄嗟に前方に顔を背けた。歩を進める足だけが、壊れたからくりのように交互に踏み出すのを止めず。

 

 悪魔とは何て愚かないきものなんだろう、と
 この夜ほど思ったことはない


 
「……にいさん、…いま、なにしたの?」

 ──震えている声は、寒さの所為だけではないだろう。
 自分の上着を掴んだままの手がこのまま固まってしまえばいいと、そんな馬鹿な事を考える思考が、現実逃避だともうひとりの自分が嘲笑う。勝手に話し出す口調が、震えていないのが不思議なくらいだ。

「……起きたのか。よく寝ていたな、寒くないか?」
「誤摩化さないで! いまっくちっ……!」
「………」
「……なんで、黙ってるの」
「……口の端にさっき食べた焼鳥のタレが付いてたから」
「!?」
「……とでも言えば、納得してくれるか?」
「なんで……」
「……言わない」
「なんで」

 あくまで理由を訊いてくれようとするお前から逃げ出したいくらいなのに、それでも離したくない、連れて行きたい、浚ってしまえたらどんなにか
 
「……言えば、お前は答えなきゃなんなくなる。俺はそれを、聞きたくない」
「なんで」
「お前が起きてるとは気付かなかった。雪男は寝たふりが上手いな」
「にいさん」
「悪い。雪男には解んねぇ事ばかりだな」
「兄さん、降ろして」

 言い訳だ。解っている
 それでも

「でも、勝手ばっかで悪いけどさ、出来れば知らねぇままでいてくんねー? もう二度と……勝手に触ったりしねぇと誓うから」
「兄さん!」
「我が儘ついでに、そのままでいてくれ。今は……」
「降ろしてよ! それで、ちゃんとこっち見て!」
「──ゆきお」
「早く」
 背中から響く声に、逡巡など何処にも聞こえなくて。
 何時だってギリギリの現場で、必要であるべき決断を下す正十字騎士團上二級祓魔師の声が、機械のように繰り返し動いていた燐の足を止める。

 ──自業自得だ

 パチパチと不鮮明な点滅を繰り返す街灯の下、殊更ゆっくりと彼の下肢を支えていた腕を緩めれば、少し前までの酔いなどまるで嘘のよう、重力を感じさせない軽やかな動きでふわりと雪男が飛び降りた。
 そのまま罵倒されるか、殴られるか、逃げられるか──弟がどんな行動を取ろうと、自分にはそれを止める権利など何ひとつない事は重々承知。怒って殴ってくれたらいい、侮蔑の言葉で唾吐かれたとしても甘んじて受けよう。
 ──ただそれでも、あのきれいな孔雀色の瞳が憎悪に染まる様を見るのだけは怖かった。
  
 数秒とも数十分とも知れない時間が、目に見えない圧力をかけて肩に圧しかかる。
 目を閉じたまま、それでも「弟」の残すどんな音も言葉も逃したくなくて、全神経を耳に集中させたまま燐は待った。
 ジャリ、と路面を靴底が擦る音がして、いよいよかと強張った身体が感じたのは、冷たく荒れたコンクリートでも固い拳でもなく──銃を扱う、少しかさついた皮膚の感触。
 予想外の驚きに思わず目を開ければ、そこには、いつ何時とも彼の傍らに立つ事を許したたったひとりの「弟」が、静かに凪いだ瞳をして真正面から燐の頬に手をかけていた。


「……」
「……なんて顔、してるの」
「……見られたくなかったんだけどな」
「祓魔塾剣技担当講師がなんてザマなの。魔神の落胤なんても呼ばれるくせに」
「俺は神様じゃねーよ」
「……」
「くだんねぇアクマだ。……失敗だってする」
「……失敗、したの?」
「……」
「……いくら僕の成長が止まったって言ったって、それなりに男の体重は確保してるつもりなんだけど。……兄さんの力じゃ軽かったからって、女の子とでも間違えた?」
「違う」
「……」
「……間違えたりしてねー」
「……兄さん」
「……」

 「弟」の口調はどこまでも静かで、そして、一切の嘘を許してはくれない。

「……もう一度訊くよ。『なんで』?」
「……お前が……好きなんだ」
「……それが、『失敗』?」
「……困んだろ?」
「……」
「なかった事にしてくれってーのは、虫が良すぎるってわかってら。でも」
「兄さん」
「うん」

 普段は話の途中に割り込むなんて無礼をしない雪男の瞳がきつく光る。
 そんな事までさせてしまう自分が、情けなくてくやしい。
 俺は──「兄ちゃん」なのにな

「もう僕ら二十歳もとっくに越えて幾星霜なのに、うんとか言わないで」
「悪い」
「それは、『何』に対しての『悪い』なのかな」
「……手厳しいな、奥村センセイ」
「兄さんがひとりでぐだぐだぐるぐるしてるからでしょう。僕、まだ何も言ってないと思うんだけど」
「……」
「聞きたくないとか、子どもかあんた」


「ゆき……──!?」

 ふいに捕まれた上着ごと引き寄せられて、予想もしていなかった動きに身体がそのまま前へと傾ぐ。自分とほとんど体格の変わらない成人男性を片手であしらう辺り、近接戦闘は少ないと言えど自在に重火器を捌く竜騎士の膂力は伊達ではない。合わせて重心をずらせるように頬に触れられていた手が襟元へ回れば、いかに燐と言えどバランスを保つのは容易ではなかった。せめて前のめりに倒れぬようにと、踏み出した足に体重をかける。
 柔道技を仕掛けられたような態勢に、条件反射で受け身を取ろうとする身体から逆に意識して力を抜いた。「弟」からもたらされるものなら、どうなろうと構わなかった。
 だが、そのまま浮かされるだろうと予想した身体は地に足を着けたままで、目を見張ったままの視界に雪男の顔が大写しになる。

「ゆ」

 呆然と開いたままの唇に柔らかい感触が触れて、孔雀色の瞳が真っ直ぐ視線を合わせたままに遠ざかるまで、燐は身じろぎひとつ出来なかった。

 とん、と胸元を叩かれるように距離を取られて、ようやく再起動を果たしたかのように燐の思考が動き出す。
 自分から丁度一歩半の位置に立つ「弟」の両手は固く握りしめられ、小刻みに震える様が彼の感情をそのままに表していて、それでも、燐からその視線を逸らすことはなく。

 ギシギシと錆び付いたかのように動かない手足がもどかしい。
 祓魔現場で要救助者を救う為に延ばされる手はあれほど思うがままに動くのに、自分が心底望む時にはまるでいう事を利かない。

 ──今、今動かなければ、腕も足もある意味がないのに


「本当に、聞かなくていいの? 兄さん?」
「ゆき、今のは」
「……それも、言わない方がいいのかな? 兄さんみたいに」
「雪男」

 「弟」の顔がくしゃりと歪む。
 そんな顔をさせたい訳じゃないのに、どうして俺は

「兄さんはもう触らないって言ったけど、僕は触りたいよ。だから、勝手に触った」
「ゆき」

 喜んでしまうなんて、なんてひどい

「兄さんは失敗って思ったのかもしれないけど、僕は兄さんが好きだからキスしてもらって嬉しかったし、好きって言ってくれたから、キスしてもいいのかなって思ったんだ!」


 動け!


 「弟」までの距離を一足飛びに越えて、その腕に触れざま引き寄せ力の限り抱きしめる。
 過ぎない程度に鍛えられてるとはいえ、180を数える身体は誂えたかのようにすっぽりと燐の腕の中に収まり、アルコールの匂いと共にふわりと鼻孔を擽った懐かしい匂いが嬉しくて信じられなくて、ぎゅうぎゅうと彼に縋り付く腕を我慢出来ない。

「ゆき」

 今が夢ならこのままどうか覚めないでほしい。処刑間際に脳が見せる幻ならばこのまま滅んだって構うものか
 
「ゆきお」

 腕の中の身体が揺れるのを、強過ぎる悪魔の腕力に苦しがっているのだと解るのに、ほんの少しでも力を緩めれば瞬く間もなく逃げ去ってしまいそうで怖いと思う。
 距離を取ろうとしてもがく腕から諦めたかのように力が抜け、冷えた焦茶色のくせ毛がそっと肩元にその重さを預けてくれて初めて、ようやく燐は詰めていた息を吐いた。 


「ゆき」
「……もう勝手に触んないって、言ってなかったっけ」
「ごめん、雪男。俺は……」
「返事も聞きたくないって、言った」
「ごめん」

 先程の勢いは何処へやら、ぽつぽつと呟くように話す声が隠すものが痛くて、知りたくて、謝らなければと思うのに、今何より見たい顔は俯いた前髪に隠れて見えない。
 けれど、謝るより先に言わなくちゃならない事がある。伝えたい事がある。
 今度こそ、自分は間違える訳にはいかないから。

「もう一度……もう一度言うから、返事が欲しい。言ってくんねーか、ゆきお」
「……」

 小さな身じろぎを、肯定だと信じたい

「……お前が好きなんだ、雪男。もうずっと前から、誰とも違う意味で。……お前にキスしたいと思うし、触りたいと思う。こんなのは、お前だけなんだ」
「……」
「雪男が、好きなんだ。……許してもらえねぇか?」
「……許すって、なにを」
「……俺が、雪男を、好きなことを」
「……兄さん馬鹿? 馬鹿だよね? そうだね馬鹿だったねそういえば!」
「ゆき」

 台詞にそぐわない声色が深夜の路面に小さく響いた。
 ゆっくりと見上げてくれる顔は、寒さだけではない赤に染まっていて。

「許すも許さないもないだろ。……僕だって、兄さんの事好きなんだから」
「ゆきお」
「言葉がないと不安なら……許してあげる。兄さんのしたいこと、全部許してあげるから、僕にも、したいことさせて」
「………さんきゅ、雪男」
「もう触んないとか、言わないで。……僕だって、触りたいんだから」
「うん」
「またうんとか言う」

 もともと下がり気味の目尻をへにゃりと下げて弟が苦笑する。仕方がないなと、幼い頃から変わらずにいつも俺を許してくれるときの顔で。
 赦されていることが嬉しくて、抱きしめる腕にまた力が入る。抱きしめても、いなくならない。夢じゃない。背中に廻してくれた手が、それを教えてくれる。

「先ずは、もっかい」
「ゆき?」
「キスしよう兄さん。キスしたい。……好き合ってるなら、ちゃんと」
「雪男」
「あんな不意打ちなんか、カウントに入れられないだろ」

 ふて腐れたような口調が、可愛くて愛しくてならない。
 真っ直ぐに自分を見つめる孔雀色の瞳に、そう、始めからこの瞳に捕われたのだと、言葉にならないものが心に広がってゆく。

 触れた頬は、柔らかくて。
 見つめてくれる雪男が、楽しそうなのが嬉しい。


「雪男、キスしていいか?」
「いいよ、兄さん」

 

 ゆっくり目を閉じてゆく顔を、一生忘れないと、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Love may be blind, but love is not deaf.
Everything I said yesterday is true.
I LOVE YOU !