廃園

一次二次創作を含む世迷言です。何でも許せる方のみどうぞ。あくまで個人的な発言につき、転載、引用はお断り致します。

【初恋ニ非ズ】

 

 

※同人誌Web再録
初恋ニ非ズ

 

 

 


「初恋は実らない」
 何時だったろう、そんな台詞を何処かで聞いて
 それならこの気持ちは「初恋」にはしないとその時決めた
 「好き」でいるだけだから、
 ずっと「好き」でいるだけだから、
 だから
 「初恋」なんて言葉で僕の気持ちを終らせないで

 

 

「初恋ってさぁ、どーして「初恋」なんだろーな?」


 兄の発言は何時でも突然だ。
 しかも相部屋である子ども部屋に僕しかいない場合、それは独り言の類いではなくまず間違いなく僕に会話を求めての発言だと思うのだが、言わなくても解るだろうと思い込んでるらしく、大概その内容の前後もなくいきなり話しだす事が多いので、その時の兄の状態やら学校の行事やら(僕にはよく解らないものばかりだが)クラスの流行りの話題やら、そんなものから兄の発言元を想像しなければならない事が多くて、これが最近中々に困っている。

 

 ほとんど四六時中と言っていいくらい一緒にいた幼い頃ならば、何も言わずとも兄の考えている事などその顔を見ただけで解った。繋いだ手を握ってくれた温かさが、「行こう!」と振り返って立ち上がらせてくれるその声が、その心のままに真っ直ぐに見つめてくる蒼い瞳が、言葉よりも雄弁に僕に兄の気持ちを伝えてくれていた。手を引いて僕の前を走りながら、夕日の影が長く伸びる兄の背中は何故だかとても大きく見えて、いつも電信柱の陰から覗いては纏わりつき追いかけてくる「こわいもの」も、兄が一緒の時は不思議とその姿を見る事はなかった。他のどんな子に言っても信じてもらえない「こわいもの」を、兄もやっぱり「俺には何も見えねーぞ?」と言いながら、それでも「でも、雪男が「いる」って言うんだからいるんだろ? 任せろ!そんなん兄ちゃんがやっつけてやるからな!」と言って、自分には見えないのに、僕が指差すところに走っていってはその「こわいもの」を「兄ちゃんパンチ」や「兄ちゃんキック」で追い払ってくれるのだ。
 神父さんや他の修道士も、僕の言う「こわいもの」の事は信じてくれた。当時の僕には解らなかったけれど、彼等は義父ー聖騎士を始めとする祓魔師達だ。恐らく聖句と結界を何重にも張り巡らせて、他の悪魔から、そして正十字騎士團から、僕と兄とを隠してくれていたのだろう。それでも、幼く弱い身体は、道ですれ違った小さなコールタール程度の瘴気にも簡単に当てられてはよく寝込んだ。
 そうしてそんな弱った僕らの部屋の窓を、時折コンコンと何か「こわいもの」がノックするのを見る度、ゆらゆらと蠢く黒い手が僕に手招きをする度に、僕は兄さんの布団を頭まで被って、その「こわいもの」を兄さんが追い払ってくれるのを待った。いつだって兄さんは僕の言う事を信じてくれた。信じてくれて、護ってくれた。

 

 七歳のあの日、義父に「強くなって、人や兄さんを守りたくないか?」と言われるまで、
 自分にも兄さんを護る事が出来るのだと知ったあの日まで、

 兄さんは僕の「ヒーロー」だった。
 何時でもどんな時でも僕を護ってくれた。
 だからもしも自分が強くなれたなら、何時か僕も、兄さんの「ヒーロー」になりたいと思ったのだ。

 

 あの日から七年。
 僕が兄に護られていた時間と同じだけの時間を費やして、僕は兄を護れるだけの「力」を手に入れた。
 義父ー「聖騎士」には遠く及ばないながらも、下二級とはいえ正式に「祓魔師」としての資格を手に入れた時から、僕は義父が言っていた「兄が視るはずのもっと恐ろしいもの」の世界に足を踏み入れる事になった。七年という時間は確実に僕を成長させてくれ、望んだ知識も力も僕は手に入れる事が出来たけれど、同時に幼い日には気付かなかった感情にも、嫌が応にも気付かされた。身体の発達と共に、当然のものとして訪れる第二次性徴期。
 幸か不幸かいずれ自分の身体に訪れるであろう変化の状態は、医工騎士の資格を取得する上での授業の一環の中で、一般医学を修める過程で知識として既に習得していたので、いざ自分の身体に変化が現れ出した時も、「ああこれがそうか」と、淡々と医学書の内容を思い出してしまった程度の興味でしかなかった。放っておいたとて身体に悪い事でもないと知ってはいたけれど、単純に下着を汚すような事になるのは嫌だなぁと、黙々と風呂場で性器を擦り上げた。刺激を与えられれば男性の身体は簡単にそれを快楽として受け入れる。けれど、事務的に自分の手で行われるそれとは違い、丁度その頃から騎士團によって実施されていた「基礎検査」に毎日ではないとはいえ、週に一度か二度「精液」の採取が付け加えられた事については、咥内粘膜や毛髪、血液の採取と同じといくら思い込もうとしても、全身の毛穴が逆立つような生理的嫌悪感を誤摩化す事は出来なかった。
 当時雪男が祓魔塾に入塾、と言うより正十字騎士團に所属するようになった最初から、サタンの炎は継いでいないとはいえ「魔神の落胤」と双子の兄弟であるという事実から、雪男が「人間である」事の証明の為に、毎日の基礎検査と定期的な特別検査はメフィスト直属として特別編成された医工チームが執り行っていた。騎士團本部に報告される事のないその検査結果は、累計数値を統計データ化した後直接日本支部支部長であるメフィストに手渡される訳だが、当然検査と培養確認を行う最小限のメンバーには雪男の出自は伝達されていて、その事実は、変化と成果を求める「研究者」達にとっては格好の「研究対象」であった。現時点では「サタンの炎」及び「悪魔化の兆候」は確認出来ずとも、「それ」は他に類を見ないサタンと人間との「ハーフ」であり、そしてその存在は外部には秘され。熱や炎、冷気に対する耐性、各種薬品への反応、細胞レベルでの培養からの解析、「人間」である根拠にはなりえど「証拠」にはならない「結果」。「対象」が真にただの「人間」であるならばそれは何の面白みもない検査で終ったろう。しかし、「奥村雪男」は違った。そして、一切の戦闘に参加せず、毎日を電子顕微鏡から覗く世界で構築している彼等にとって「奥村雪男」は「研究対象」であって「人間」ではなかった。その「人格」や「感情」までもが研究の対象であって、それはもはやお世辞にも「人道的」な「待遇」とは到底呼べるものではなかった。
 もし雪男が「聖騎士」に訴えていれば、その研究内容も試験方法も変えてもらえただろう。検査そのものも廃止されていたかもしれない。それでも、あえて上級騎士が「鍵」で入室出来ないように、網膜センサーや指紋認証など科学的な方法で施錠隔離された一角で、雪男はただ黙ってその屈辱的な扱いを受け入れた。

 「じゃあ、お兄さんで試してみようか?」

 その一言に、雪男は自ら「実験動物」となる事を選んだのだ。


 自分が中学校で「普通の中学生」として授業を受けている間も、兄は度々学校から姿を消した。別段悪い遊びを覚えたとかおかしな仲間とつるむだとかそういう事ではなくて、兄自身にも何となく解っていたのだろう、自らが引き寄せる「悪影響」から周囲の皆を護りたくて、自分が離れていれば何も起こらないだろうと、誰に言い訳もせずにおもむろにふらりと姿を消す兄を、何度町外れの廃寺まで迎えに行った事だろう。いつも兄は夕暮れのオレンジ色の中、所々腐りかけた縁側に横になっていた。眠っている時もあれば、ただ黙って空を見上げていた時もあった。思いのほか兄の制服に汚れが付いていないのは、それほど頻繁に兄がここを訪れている証拠だろう。今は住職もおらず廃寺になったとはいえ、元々神社や寺社などの「神」や近隣からの「想い」を祀られていた場所は、寂れても未だに結界としての役割は果たしてくれている。総門をくぐったと同時に周りの空気が清浄なものに変わるのが解る。普通の人間からしてみれば「やっぱり植物が多いと空気がきれいね」とでも言っているところだろうか。コールタール程度の下級悪魔なら近寄れもしない聖域に兄が何の抵抗もなく入っていけるのは、未だ兄が「悪魔」として「覚醒」していない証拠なのか、それとも覚醒していなくとも兄の「悪魔」としての「格」がこの程度の結界など何の問題にもしていなかったのか、それは今でも解らない。段々と遅刻早退どころか学校へ出席そのものすらしなくなっていった兄に「どうせならあそこのお寺にでも行ってみたら? 静かだし、屋根もトイレもあるよ?」と誘導してみたら、「まぁ考えてみるわ」と生返事を返していながらも、大概この場所にいてくれるようになった事にほっと安堵を覚えた。
 僕らが中学に上がる頃には、さすがに幼い頃のように無条件に言う事を聞いてくれる事は少なくなったけれど、それでも何だかんだと文句を言いながら、兄は昔から僕の「お願い」は叶えてくれた。と、いうか断られた記憶がほとんど無い。兄が此処にいる事も、僕が迎えに来る事も、きっと兄には「当然」の事で、まるで待ち合わせか何かのように考えていたのかもしれない。兄の頬が腫れていても、その甲が裂けていても、僕が「帰ろうよ。僕お腹空いた」と手を差し出せば、兄はしょうがねぇな、という顔をして、それでも必ず僕の手を取ってくれた。細々と理由を考える必要はなかった。僕が「お腹空いた」と言えば、必ず兄は何か作ってくれた。
 それだけで、僕らの間では何かが伝わっていたあの頃。

 

「そうそう兄さん、後でその怪我手当するからちゃんと洗ってから部屋に来てよ。じゃないと神父さんにも言うからね」
「わっ! それヒキョーだぞ雪男!」
「卑怯くらい漢字で発音してよ。……黙っててあげるから、せめて手当ぐらいさせて。心配、してるんだからさ」
「こんなんツバでも付けときゃ治るって」
「唾液にどれだけの雑菌が含まれてるか知らないの? 舐めておけばとか、それただの迷信だからね」
「へーへー。さっすが未来のお医者様は違うな」
「医師じゃなくても今時常識だよ………。早く帰ろう? スーパーにも寄るんでしょ? 僕煮魚がいいな」
「今日は豚の生姜焼きって決まってんの! お前そのギリギリでリクエスト言うのやめろ。俺にだって都合があんだよ」
「えー……僕今日お魚の気分だったのになぁ」
「スーパーで赤魚安かったら明日作ってやる! それで我慢しとけ」
「はーい」

 碌に学校にも行かずに喧嘩三昧と悪評高い兄に、「これ飯代な、あんまり入ってねぇけど今月はこれで何とかしてくれ」とぽんと家計の財布を預ける義父。修道院の財政状況は余裕とは全く縁のないものであったけれど、例えそうでなくとも、兄はそのお金をおかしな事に使い込むような事はしなかったし、義父も僕もそんな事など夢にも考えた事はなかった。そうして僕らが小さい頃は確か修道士達が交代で作っていた筈の食事は、時間さえ間に合えば大概兄が作るようになっていた。
 寝込んだ時によく兄が持ってきてくれた不格好な林檎や、ちょっと焦げ臭いおかゆ。絆創膏だらけの兄の手が作ってくれたそれらは僕にとっては何よりのごちそうで、ありがとうと言う度に兄はばりばりと髪をかきむしっては照れていた。元々手先の器用な兄に「料理」は性に合っていたのか、みるみる兄の料理の腕は上がり、もう僕が寝込む事も滅多になければ、兄のおかゆが焦げ臭い事もほとんどないけれど、僕にとってはそれは昔から変わらない「家庭」の味で、「家族」の食卓だった。
 何でもない兄弟の、何でもない会話。
 そんなものが、僕には何より嬉しくて、大事だった。そんなものを、僕は何よりも護りたかった。僕の「兄」である「奥村燐」を護りたかった。「弟」として「兄さん」を護りたかった。

 そして気が付けばもう僕の中での「兄」と「奥村燐」は溶けて混ざって、掛替えの無い唯一の「存在」となっていた。

 

 これから揃って修道院に帰って、兄には先ずは義父からの説教だろう。それから皆で兄手作りの夕食を摂って、どうせまた勉強もせずにさっさと寝てしまうんだろう兄の寝顔を眺めてから、毎夜ではないにしろ、僕は「鍵」を使って正十字騎士團日本支部へ赴き、祓魔師として任務へ向かう。よっぽどの事がない限り昼間の任務から外されているのは、せめて義務教育ぐらいはと義父がフェレス卿に掛け合った成果だろう。あれでいて「教育者」としての「正十字学園理事長」という肩書きを併せ持つ道化者は、以外にもすんなりと義父の申し出を聞き入れた。その引き換えとして僕に対しては深夜の任務が多くなり、それはそのまま睡眠時間の減少と同義となったが、幼少の頃からの習慣が効いたのか、この頃にはせいぜい四時間も眠れれば日中の活動には支障がない程度に身体は丈夫になっていたので、特別辛いとは思わなかった。
 人気の絶えた古ぼけた廊下を通り、義父の使っている悪魔薬学講師室で團服のベルトを締め装備を確認する。予備の弾倉のジャンプコイルが伸びてはいないか。討伐対象である悪魔の属性に合わせた魔法弾の補充は注文通りに届いているか。応急処置用の薬品は足りているか。聖水弾は。簡易結界札は。雪男が資格を保有する竜騎士と医工騎士は他の称号に比べて装備品の数が段違いに多い。それは自らを武器とする近接戦闘ではなく、あくまで銃器弾薬と薬品などの物品に頼る戦闘に成らざるを得ない事を意味する。万が一を考えて一応出来る限りの致死節の暗記と近接戦闘訓練は受けているものの、他の祓魔師にくらべ格段に年若い(何せ最年少だ)雪男に出来れば前線への出動はさせたくないのが親心であろうが、物品に戦力を依存する以上、装備の確認は何よりも優先事項だと義父から何度も何度も言い聞かされていた。ジャコッとスライドを滑らせオイルの回り具合を耳で聞きながら、今頃兄はどんな夢を見ているだろうと考えた。
 もういい加減足を伸ばすのも辛くなってきた二段ベッドの下段で、タオルケットも碌に掛けずにまたあの独特の半目を開けた寝顔を晒しているのだろうか。任務明けにサイドランプに照らされて見る顔は、だらしなく口元を開けたまま涎を零している事もしょっちゅうだ。

 

 ―――それでも、良い夢ならいい。熟睡している兄の腹にずり落ちそうなタオルケットを掛け直した事を思い出しながら雪男は願う。

 正体無く眠る「兄」の夢を護る為に、自分はこれから硝煙の中で汚濁に塗れながら「悪魔」を祓う。一目で「悪魔」と解る異形の姿をしたものならばまだマシだ。時には「人間」とほとんど変わらない姿で襲ってくる「悪魔」もいる。憑依した「悪魔」の気まぐれで、もはや分離も不可能な程融合しながらも、「人間」の意識を持って「助けて」と泣き縋る異形の眉間を撃ち抜いた事もある。対峙する相手の表層意識を読んで、「知り合い」や「恋人」に化けて惑わす「悪魔」も珍しくはない。

「……何だ…お前、実の兄に懸想してるのか? ………ははっこりゃあお笑いだ、お前に俺が撃てるのか……? なぁ、雪男………?」
「―――撃てるさ。お前は「兄さん」じゃないからな」

 「兄」を護る為に「祓魔師」になった。その自分に「兄」以外の「悪魔」を屠る事に何の躊躇いなどあるものか。
 赤い人血も、どす黒い体液も、そこらでシュウシュウと異臭を放ちながら蒸発している青緑の粘液も、雪男にとっては皆同じだ。
 腐った血を浴びて汚泥に転がりながらも、「兄を護りたい」―――その願いは変わらない。
 小さな背中で、強い意志で、負けない気持ちで、「こわいもの」から自分を護ってくれたその「兄」を、今度は自分が護るのだ。
 運動部に入っている訳でもなく、放課後は図書館で勉強している「筈」の自分がしている包帯に、時々兄が不審な目で物言いたげにしているのを知っている。自分の所為で喧嘩に巻き込まれたのかと問い詰められた事もある。それでも自分は何も言わなかった。転んだだけだと繰り返した理由を兄が信じていないのは見て解っていたけれど、それでも何ひとつ兄に言う訳にはいかなかった。言うつもりもなかった。

 「兄」が「覚醒」する―――その時まで。
 「兄」には「人間」として生きて欲しかった。「奥村燐」でいて欲しかった。自分の「兄」でいて欲しかった。
 自分を「弟」だと叫ぶ、たったひとりの「存在」のままでいて欲しかった。


 「……にいさん………」


 あの頃は簡単に言えた「兄さん大好き!」という言葉が、その意味を変えるにつれ、段々と言えなくなって、言わなくなって、最後に「大好き!」と言えたのが何時だったかなんてもう覚えていない。

 そうして未だ「その時」を迎えていない「兄」は、二段ベッドでごろごろと暢気に僕のSQのページをめくりながら、唐突に冒頭の台詞を投げたのだ。


「初恋ってさぁ、どーして「初恋」なんだろーな?」

 勉強机に向かっている僕の都合など昔から兄はお構いなしだ。どうやら小学校低学年辺りで自分の学力にさっさと見切りをつけたらしく、「勉強はゆきお、兄ちゃんは料理」と教科書の代わりにレシピ本なんかをよく眺めていたのを思い出す。
 薬草としての効能ならまだしも、肉、魚や野菜の種類ごとの下処理の仕方だの切り方だの火加減だのと、数学どころか算数も怪しい兄が、よくもまぁあれ程細々した内容を覚えられるものだと不思議で仕方が無い。しかも同じ食材でも採取された時期によってもその処理を変えたり、調理器具によっても調子を微調整する必要があるとなれば、これはもう僕には本当にお手上げだ。科学的な計量で数ミリグラムの薬品をそれぞれ同一条件の中で調合するというのであれば自分にも出来るが、「状況に応じて微調整」の「微」がどの程度の範囲を示すのか予測もつかない。兄に言わせれば「そこはこうぱぱっと」だの「一回りちょっと」だの曖昧な表現ばかりで言ってくるから、もういっそ致死節の何章かを纏めて丸暗記しろと言われた方がよっぽど解りやすい。更には使い慣れた修道院の台所ならまだしも、時々公民館などで炊き出しの手伝いをする際など(残念な事に僕は紙皿と割り箸配りしかやらせてもらった事がないが)、普段と全く違う環境でも間違いなく「兄の味」を作ってしまうから言葉も出ない。正に「人には向き不向きがある」というのも両手を上げて納得だ。もし、もしもこのまま兄が「人間」として生きる事が叶うのなら、兄はきっとプロの料理人にもなれるだろう。僕が「美味しいね」と一言言うだけでとても喜んでくれる兄はあれで意外と寂しがりで人懐こい。たくさんの人に自分の料理を食べてもらって、そして「美味しい」と言ってもらえたなら、兄は一体どれだけの笑顔で喜ぶのだろう。
 僕にも見せた事のないきっと最高の笑顔で照れて笑うのだろう。
 その時、「僕」は「兄」の隣にいられているだろうか。

 そんな楽観的な希望でしかない事をつらつらと考えていたら、兄は僕が兄を無視しているとでも思ったのか、ベッドからだらりとずり落ちると、そのままぐいぐいとシャーペンを持っている腕を引っ張ってきた。

「――なぁ、ゆきおー」
「………最初の恋だからじゃないの?」
「最初って事は二番目も三番目もあるってことだろ? じゃあ最初のは?」
「…初恋は実らないって言うからね」

 「初恋」は実らない―――誰が言っていたのだったか。昔過ぎて覚えていない。それとも雑多に町に流れる流行りのポップスか。耳が勝手に覚えたか。
 どちらにしろ、「それ」は僕にとって「呪い」であり「救い」だ。
 「初恋」は実らない―――ならばこの気持ちは「恋」にはしない。「恋」ではない。
 ただ―――ただ、「好き」なだけだ。

「……実らねぇの? まだ実ってねぇだけじゃねーの?」

 僕の椅子の足元にあぐらをかいて座り込んだ兄が、不思議そうに首を傾げる。
 優しい「兄さん」。素直な「兄さん」。
 あなたを「悪魔」と呼び、「サタンの落胤」と呼ぶならば、母親の胎内で同じ血を分けた「僕」は一体「何」なのだろう。
 毎日の基礎検査で「人間」としての結果を「不本意」そうに告げられてはいるが、本当の「悪魔」は―――きっと、「僕」の方だ。
 
 だって、こんなにも僕の心はどす黒い澱みで汚れてしまっている。

 まだ、とは前向きな兄らしい考え方だ。
 それならば兄には「まだ」「初恋」が続いているのだろうか。
 優しい兄が好きになった女の子なら、きっと明るくて元気な女の子だろう。
 僕の知らない場所で、僕の知らない「兄」がいる―――手に持った安物のシャーペンがミシリと嫌な音を立てたが、そんな音は聞こえなかった事にした。
 改めて考えてみれば僕達は双子で同い年なのだ。当然思春期と呼ばれる時期の真っ最中でもある。僕の中でのそんな柔らかい情動などはとっくに擦り切れて消えてしまっていたけれど、兄はこれから、まだまだ「恋」をしていく時期なのだ。

「…さぁね」
「皆気ぃ短すぎんじゃね?」
「嫌われたら…それで終わりでしょ。兄さんには解らないよ」

 「兄」が「恋」している明るくて優しい元気な「女の子」
 傍目には解りにくくとも、兄が好きになったような子なら、遅かれ早かれ兄の優しさにも気付くだろう。このまま時が過ぎさえしてくれれば、きっと絵に描いたようなハッピーエンドだ。例えその子が別の男を好きだったとしても、「そっか! じゃあ仲良くな!」と兄は笑って見送るのだろう。健康で、きれいな「恋」だ。
 「男」で「双子の弟」で「嘘吐き」の「汚れきった祓魔師」の僕には、見る事さえ叶わない夢だ。
 ならば「弟」でいい。僕らは世界にたった二人の兄弟で、兄の「弟」は僕しかいない。
 「同い年なんだから、名前で呼んだりしないのか?」―俺には上も下も兄弟がいるけど、皆名前で呼んでるぜ? と、時折祓魔塾で訊かれたりもするが、僕はきっとこれからもずっと、「兄」を「兄さん」と呼び続ける。
 それだけが、僕と兄とを繋ぐ決して切れない糸であり続けるから。

「俺にはって…お前、嫌われたことあんのか? 好きなやつに?」
「もういいでしょ。この話はおしまい」
「よくねーよ!」

 急に激昂したように雑誌を床に叩き付け、兄が僕の横に立ち上がる。この頃には毎日の鍛錬の成果か成長期が早かったのか、僕の身長はとうに兄を追い越していたけれど、僕が椅子に座っているせいで、肩を掴まれ無理矢理振り向かせられた視線は当然兄を見上げる形となる。
 こうして兄さんを見上げるのも久しぶりだなと、現実逃避のように考えながら、真っ直ぐに迷い無く僕に合わせて来る兄の視線が痛くて、ハリボテだらけの心がピシピシと氷が割れるような音を立ててひび割れていく。 

「何だよ?! 嫌われたって! それに、お前が好きって! 誰だよ! 俺がぶん殴ってきてやっから!」
「関係ないだろ」

 兄が興奮している理由が解らない。
 未だに「雪男は俺が護ってやらなくちゃ」とでも考えているのだろうか。自分の恋と比べて、僕に何か引け目でも感じているのだろうか。何にせよ「ぶん殴る」とはお笑い草だ。誰を殴ると言うのだ。鏡に向かって拳を振り上げるつもりか?
 殴られるより何より、僕を奈落へ突き落とすのは、「兄さん」――兄自身なのだから。

「嫌われたらって考えただけで目の前が真っ暗になる気持ちも、嫌われるくらいなら今のままでもって逃げたい気持ちも、どうせ兄さんには解んないし関係ないだろ! ほっといてよ!」
「そんなに好きなのかよ!」
「兄さんに関係な」
「ある!」
「!!」
「ねー訳ねーだろ! 兄ちゃんなんだから!」

 「ニイチャンナンダカラ」―――幼い頃から何度も何度も聞いた台詞。昔は「兄ちゃんなんだから」と兄が言う度に嬉しかった。泣いてばかりの自分は嫌いだったけど、こんなに強いひとが自分の「兄さん」だという事が誇らしくて嬉しかった。
 けれど――けれど今だけは聞きたくない。あなたが「兄」だからこそ、今の「僕」がいるけれど、あなたが「兄」だからこそ、僕のこの気持ちは何処にも行けないでタールのように淀んでは溜まり、僕の全部をいずれ喰らってしまうだろう。

「兄弟だからって…!」

 「兄弟」、「双子」、「世界にたった二人だけのサタンの落胤
 そんなものじゃなくて、そんな特別なものじゃなくて、もしも僕らがただの他人だったなら、「兄」は一体どうしただろう。「僕」は一体どうしただろう。
 沸騰したように込み上げる感情のままに立ち上がりかけた僕を、兄が力任せに抑え付けた。みしりと肩の骨が軋んだ気がする。視線は外さない。外せない。どうしてこんなにも。

「だってお前泣いてんじゃねーかよ! そんなん許せる訳ねーだろ!」

 ―――泣いてる?
 言われて初めて自分が泣いている事に気付く。何年ぶりだろう、こんな、こんな事で泣くなんて。まるで癇癪を起こした子どもみたいに。
 それでも何故か、叫ぶ兄の顔の方がよっぽど泣きそうに見えた。

「…兄さん」
「誰だよお前泣かせてんの! 言えよ! お前悪くねーだろ!」
「……」
「泣くほど好きなら、何でそんな顔してんだよ! 俺の弟を泣かすなら誰だって殴ってやる!」

 「俺の弟」―――結局兄の根底はそこなのだ。当たり前だ。どんな常識に当て嵌めたって、僕らは「兄弟」で「家族」だ。解っている。それでもどうして僕は。
 ―――こんなにも僕は、「兄」を愛してしまったのか。

「…そういう」
「ゆきお?」
「…何にも解ってないくせに、兄貴面するところが大っ嫌いなんだよ!」
「ゆき!」
「関係ないだろ! 放っておけよ! 弟の事なんかさ! 弟なんだろ!」
「…雪男」
「…僕が弟じゃなかったら、放っておくんだろ…」

 僕と「兄」がもし兄弟でも何でもない「他人」だったら、僕らの関係はどうなっていたのだろう。同じような時期に南十字修道院に拾われ義父に育てられたとしても、かけっこも木登りも出来なくて、弱虫で泣いてばかりの僕に「燐」は声を掛けてくれただろうか。兄が幼少時から近所の子ども達とうまく関係を作れなかった理由のひとつに、「苛められっ子だった「弟」を庇って喧嘩していたから」というのが大きい。もしその元凶である「弟」がいなかったなら、明るく活発な「燐」のこと、毎日近所の子ども達と駆け回り、猫が悪戯の中で甘噛みの程度を学ぶように、子ども同士の遊びの中で自分の「力加減」も自然に覚えて、今とは違う、もっと自然な交友関係を学校の中でも築けていたのではないだろうか。
 たとえ義父に何か言われたとしても、体中が活力で満ちあふれていたような「燐」にとって、部屋の隅で本ばかり読んでいるような「根暗な子」になど何の興味も示さなかったに違いない。
 訳の解らない事ばかり言って、「こわいもの」がいる、と泣いてばかりの「雪男」にはきっと憧れになったろう「燐」にとって、「雪男」は何の興味も引かないつまらない子どもでしかないだろう。

 ………「僕」がいなかったら、
 ………もしも「弟」がいなかったなら、「兄」は、今頃
 ―――今からでも?

 久しぶりに泣いた所為か、思考がぐるぐると渦を巻いたように定まらない。
 もしも、なんてそれは現世では有り得ないIFでしかない。流れ過ぎ去った時間は戻らない。「過去」も「現実」も変えられない。

 「ひと」が「神様」に祈るのはこんな時なのだろうか。
 けれど僕にとっては、「兄」を害するものはたとえ「神様」だって「敵」だ。

「…でも」

 兄の指がそうっと動いて、僕の目尻を拭ってゆく。

「…でも、雪男は弟だろ」
「……」
「ずっと一緒にいたんだ。ほっとける訳ねーだろ」
「…兄さん」
「お前が俺をキライでも、俺はお前をほっとかねーよ」

 ならば「僕」が祈る相手は「兄」しかいない。
 僕を突き落としてバラバラに壊すのも、地獄から引き上げて助けてくれるのも、同じ「兄」だ。
 ――結局僕の世界には「兄」しか残っていないし、もともと「兄」しか存在していないのだ。
 
「………兄さん」
「…兄ちゃん、だからな。兄弟ってそーゆーもんだろ」
…そんで、雪男だからだろ。解るだろ解れ

照れ隠しなのか、もう手のひら全体で僕の頬を擦ってくる兄の赤い顔に、すう、と心の中に一筋の光が降りたような錯覚を覚える。
天使の梯子を降ろすのがサタンの落胤か―――笑えない冗談だ。

「…僕の好きなひとが、男のひとでも?」
「え?」

 予想外も予想外だったろう僕の言葉に、兄の瞳孔がまんまるになる。
 兄はこれでいて意外と常識人だ。今、兄の頭の中では僕は異星人にでも見えているんじゃないだろうか。固まったまま、ぱくぱくと声にならない言葉に口を動かしているのがちょっと可笑しい。

「……男のひとなんだ。僕の好きなひと。―――それでも? ほっとかないって言えるの?」
「……」
「キモチワルイでしょ? …ね? だから」
「きっ気持ち悪くなんかねーよっ! ちょっとビックリしただけでっ」

 ぶんぶんと兄の頭が凄い勢いで横に振られている。一生懸命に僕に「伝えよう」とする仕草に、ああ本当にこの「ひと」は優しいのだと思い知る。

 ………「好き」だなぁと、思い知る。

「兄さん」
「何か…くやしーけどさ、お前が好きになるぐらい、カッコいーんだろ、そいつ」
「うん」

 ………誰よりも格好良くて、優しいよ。
 僕にとっては今でも「ヒーロー」なんだ。

「じゃあ泣くなよ。お前だってカッコいーんだからさ、きっと解ってくれるって!」
「……」
「…ホントはすっげぇ殴りてーけど、我慢してやっから、泣くな」

 そこで「殴りたい」と言ってくる兄の心理がよく解らない。兄の心の中では僕はまだ小さい子どものままなのだろうか。子どもらしい嫉妬か。そんな見当違いな「独占欲」でも僕には嬉しい。

「…殴り、たいんだ?」
「ボッコボコにしてやりてーよ! お前は泣くし、でも好きだってゆーし! 兄ちゃんだって泣きてーよ! とりあえずお前は関係ねぇって言うな!」
「兄さん」
「応援…は出来ねーかもだけど、気持ち悪いとかねーから! もちっと兄ちゃん信用しろ!」

 応援は出来ない。けれど気持ち悪くはない。
 正直な兄らしい答えだ。理解は出来ないなりの精一杯の誠意であると解る。
 頬に添えられたままの手に、気付かれないようそっと頭を預けた。

「ふふ」
「笑うなよもう。…でも、お前は笑ってろ」

 兄の手がくしゃくしゃと僕の髪を掻き回す。兄が何かを誤摩化す時のくせだ。
 兄が何を考えて隠したいのかは知らないが、頬から離れてしまった体温を少しだけ残念に思う。

「兄ちゃんもう訳解んねーけど、雪男が笑ってたらそんだけでいーから」
「ははは。カッコいいね、兄さん」
「おう、お前のカレシにゃ負けてらんねーよ」
「まだ彼氏じゃないんだけどなぁ」
「うっせ」

 ………本当だよ。それどころか「告白」すら許されない。
 その代わり―――「弟」ではいさせて。僕は来年から騎士團との関連と合わせて正十字学園高等部へ入り、この部屋からはいなくなるけれど、それでも、僕は僕の場所からあなたを護るから。
 だからお願い―――あなたは僕の「兄さん」のままでいて。
 僕をあなたの―――「弟」でいさせて。

「俺より弱い奴なんか許さねーから」
「兄さん」
「俺より料理が下手な奴もダメ」
「何だよそれ」
「俺からお前を持ってくなら…ちゃんとお前を守れる奴じゃなきゃダメだ」
「あはははははっ」
「ゆき!」
「…大丈夫。でもありがとう、兄さん」

 不器用で正直な兄の優しさが嬉しくて痛い。
 僕らは何時までこのまま「兄弟」でいられるだろう。並んだ学習机と二段ベッドがあるだけの小さな楽園を出て、来年の今頃は、兄は更に僕の知らない世界へと歩き出し、僕の知らない「兄」となる。
 それでも、兄は僕を「弟」と呼んでくれるだろうか。


「………兄さん………」


 お願いです。僕に出来る事なら何でもします。
 だからこのまま―――このまま「兄」を「兄」のままでいさせてください。
 僕を「兄」の「弟」のままでいさせてください。
 僕の「望み」はたったそれだけなんです、お願いです………


 誰も想像し得なかった形での「春の惨劇」と「兄の覚醒」。
 たったひとつの僕の「望み」は、最悪の結果をもって眼前に示された。

 
 …………にいさん……………
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「………ん、あれ…?」

 ぱたぱたぱたっ………カタン。コトト……ぱたたっ
 ゆっくりと浮かび上がる意識の中で聞こえてくる生活音が、プロの祓魔師としての条件反射に違和感を警告する。空気で解る。ここは自分達が住まう旧男子寮の一室だ。学園全体がフェレス卿の結界で守護されている為、例外を除いて中級以上の悪魔は侵入出来ない作りになっているし、兄を狙ってくる殺手の殺気も感じない。
いつも通り、と言って良いものか、取りあえず感じる気配に異常がないのを脳裏で確認した後、さて起きるかと頭を起こそうとして初めて、雪男は自分を襲う頭痛と目眩――久方ぶりの体調不良に気が付いた。大体周囲の状況よりも自分の状況が確認出来ないなんて、それだけでも立派な異常事態だとほぞを噛む。
 普段の自分の起床時には兄はもう既に起きて食堂にいる事が多いので、セットしているスマートフォンのアラーム音もなしに目覚める事がそもそもおかしい。大体起床時間にしては窓から差し込む陽の高さはなんだ。
 よろよろと重い身体を起こし、額に乗せられていた温い冷却剤をひっぺがす。後頭部からずっしりとバリヨンを乗せられているかのような鈍痛に耐えながら、回らない思考で何とか状況確認をと考えていると、もはや注意も何もなく聞き慣れた声が雪男の耳朶を打った。そもそもこの部屋にいる以上、自分に話しかける「存在」はかなり限定されている。先程からぱたぱたと聞こえていたのは、おそらく無意識に彼の尻尾が床を叩いていたのだろう。

「おー起きたか雪男。もう昼過ぎだぞ。お前にしちゃーよく寝たな」
「僕…?」
「覚えてねーのか? お前、熱出したままガッコ行こうとして、玄関先で靴履きながらぶっ倒れたんだよ。俺がいなけりゃ頭からいってたぜ? シュラに診てもらったらインフルだって。熱下がってからも一週間は寮から出るなってさ。当然その間は塾も任務も休みな」

 そういえばと思い出す。
 ここ最近の急激な気温低下が覿面効いたのか、元々の素地があったのか、一週間ほど前から「正十字学園」でも「祓魔塾」でも「正十字騎士團」でもインフルエンザが大流行していて、感染発症した者は強制的に最低でも一週間は隔離しておかないと二次感染を引き起こす危険がある為、只でさえ万年人手不足の正十字騎士團日本支部は、現在未曾有の修羅場に陥っているのである。
 学生である内は学業が優先される筈の雪男ですら、仮病で授業を休んでは(こういう時に怪しまれない為に、大人しく真面目な特待生という立場と外面を保っているのだ)、「鍵」を使って東へ西へと祓魔任務に駆り出されている。当然「祓魔塾」の講師陣も数名感染し敷地内への立ち入り禁止を申し渡されている為、対・悪魔薬学に加えて竜騎士の実技訓練も雪男の担当授業に加えられてしまった。講師室に貼られたシフトスケジュールに引かれる赤線がどんどんと増やされていくのが恨めしい。たまたま雪男と同じ称号を希望している関係で、担当授業が粗方被ってしまう勝呂は、射撃場にて訓練生の監督をしながらうつらうつらと頭を揺らす雪男に気付いたが、そこは武士の情けでそっと見て見ぬふりをしておいた。候補生には解らぬ苦労がきっと山の様にあるのだろう。正十字騎士團歴代最年少で祓魔師資格を得た天才とは知っているが、その中身は勝呂と同じ十五歳の少年なのだ。いくら鍛えているとはいえ、頻繁に教室から姿を消す雪男を知っている身としては、休める時に少しでも休ませておいてやりたいのが、クラスメイトとしてのせめてもの気持ちだ。
 しかしながら、そういった周囲のささやかな思いやりも追いつかない程、雪男の多忙は極まりつつあった。何せ雪男は「医工騎士」の資格も取得しているのである。平たく言ってしまえばお医者様だ。このインフルエンザもしくはそれに近い症状を訴える人員が急増している中で、暇だとぼやける医工騎士など一人もいない。
 可能性の限りの予防注射を湯ノ川や椿と交互に打ち合いながら対応しているものの、ウイルスのタイプが違えば発症するのがインフルエンザというもので、昨日はついに足立が発症して自宅待機となってしまった。そうして更に雪男の担当は増える事となる。
 最近では弁当すらゆっくり食べる時間も取れない為、昼食や間食におにぎりなどを作ってもらい、それを合間に齧りつつどうにかこうにか凌いできたが、ある意味体力とウイルス耐性は別物だ。むしろ雪男がここまで保ったのは、少しでも胃に優しく栄養のあるものをと知恵を凝らした兄の努力の結晶だろう。

「………うあ…もう少し保つと思ったんだけどな。運んでくれたのは兄さん?」

 

 


「おう。お前位だったら楽勝だぜ。力持ちで親切なお兄様に感謝しろよ~」
「……何かむかつくけど取りあえず礼は言っとくよ。ありがとう。………で、この制服って言うかこの格好なに?」

 改めて自分の格好を見下ろせば、下半身は寝間着に使っているスエットに着替えさせられているものの、上半身はネクタイは外され緩められているとはいえ何故か制服のカッターシャツのままだ。おまけに布団の上にぐしゃぐしゃに引っかかっているのは兄と僕の制服の上着。全くもって訳が解らない。

「お前ががっちり俺の上着掴んで離さなかったんじゃねーか。襟引っ張られたまま脱ぐの大変だったんだからな」
「そういう時は起こしたらいいじゃないか」
「何か起こせなかったんだよ。眉間にしわ寄せて唸ってるし、お前寝起きの機嫌めちゃめちゃわりーし」

…ちょっと、泣いてたし。起こせる訳ねーだろ

「兄さん?」
「何でもね。……もう具合はいいのか? 何か食えそうなら持ってくるけど」
「ん…頭はまだ重いけど、一旦熱は大分下がったみたい。食べるよりもまず着替えしたいかな。汗かいたからちょっと気持ち悪い」

 スエットはともかくカッターシャツはとても吸水性に優れているとは言いがたい。寝汗を中途半端に吸ってべたべたと皮膚にまとわり付く生地の感触に、思い出したくもない記憶まで連想してしまって、無意識にだろう雪男から表情がすっと消えた。

「わーった、湯とタオル持ってきてやるからちょっと待ってろ」
「シャワーくらい一人で行けるよ」
「いーから待ってろって! こーゆーの久し振りだし、何か懐かしーな」
「何嬉しそうなんだよ」
「別に嬉しー訳じゃねぇけど。お前の世話すんのなんか何時振りだ……? お前はヤだろーけど、今は俺で我慢しとけ」

 先程まで畳んでいたのだろう洗濯済みの洋服類を纏めて抱え上げて部屋の隅へ一旦寄せると、ガタゴトと兄弟共通のもの(タオルやシーツなどの布類は物心ついた時から一緒だったので今更だ)をしまい込んでいる引き出しを引っ掻き回している兄の尻尾がぶんぶんと凄い勢いで振られている。
 あれで嬉しくないとか嘘だろう。兄が「悪魔」に覚醒してから、言葉よりも表情よりもその「尻尾」を見ていれば、大体兄がどう思っているかなんて手に取るように解ってしまうのだが、小狡く打算的な「人間」よりも「悪魔の尻尾」の方がよっぽど正直だなんて、この世はなんて皮肉な現実に満ちているのだろう。
 甘言を紡いで「人間」を惑わすというのが「悪魔」だと言うのなら、「彼等」の世界が「虚無界」ならば、「ここ」は一体何処なのだ? 「ここ」が「物質界」なのだと、本当に言えるのだろうか。

「……何それ。悔しいのはあるけど、別に我慢とかないよ?」
「嘘つけ。………昔お前言ってたろ。俺がキライってさ」
「兄さ」

 今まで窓の外から覗くように夢見ていた記憶が不思議に重なる。

「…何にも解ってないくせに、兄貴面するところが大っ嫌いなんだよ!」

 そうだ。確かに以前兄にそう言った事がある。去年……まだ僕らが修道院で暮らしていた頃だ。何がきっかけだったかは覚えていないが、好きなひとの話か初恋の話か何かになって、言いたいのに、言えないのに、「兄だから」とそれだけの理由で、ずかずかとこちらの領域に踏み込んで来る兄に八つ当たりしたのだったか。
 今思えば自分が傷つくのが怖かっただけの癖に、誰の為に隠していると思っているんだと癇癪を起こしたのだ。ちょっと自分の中で黒歴史に近いものがある。大概の場合、兄弟喧嘩を翌日まで後引かせる事はない兄が(それはどんなに兄が怒っても、兄が僕に手を上げた事がない、という事もあるだろう)、翌日の朝には普通に台所に立っていた事もあってか、それこそ夢に見るまで忘れていた記憶の欠片だ。
 どちらかと言えば、あんなその場限りの八つ当たりを、この物覚えの悪い兄が覚えていた事の方が不思議だ。いや、
 ―――忘れていたかった、と言うのが正しいだろうか。

「………今ならちょっと解る」

 取り出したタオルを僕の腰ら辺にぽんと置いて、去年なら絶対に見る事のなかった大人びた表情でかすかに微笑う。見ることのなかった、というのは本当だろうか? 僕が「兄」を見ることを無意識に避けていたのかもしれない。まだ熱が完全に下がってはいないのだろう、思考がぐるぐると渦を巻いて回る。ゆきお、と小さな声で名前を呼ばれて、前髪をかき上げられた。兄が腰を屈めて覗き込むように視線を合わせてくる所為で、眼鏡がなくともこの距離ならば何とか兄の表情は見て取れる。
 僕がベッドで半身を起こしたままの状態で、兄は立ったままこっちを向けと促してくる。「兄」は昔からこんな顔で「弟」を見ていたのだろうか? 「夜」以外は見上げる事などほとんどない体勢と、陽の差し込む珍しい時間との相互性が自分の中でうまく取れなくて。
 夢と同じ―――あの時と同じだなと、ふとそんな事を思い出す。

「看病とかこーゆーのはさ、好きな奴からの方が嬉しーもんだろ? でも今は髪もぼっさぼさでみっともねーからさ、いつもみてーに格好よくなってから会いに行け、な?」
「……」
「俺なら見慣れてるし、構わねーだろ、お前」

 見慣れてるってそりゃあ、兄さんは小さい頃から僕が具合悪くして寝込んでるのを誰よりも見てきただろうけどさ。汗だってかいてるし髪だってべとついてるだろうし、鼻とか赤くなってるだろうし、唇なんてちょっと舐めただけでガッサガサなのが自分でも解る。高校生になった今ですらこうなんだから、小さい頃はもっとひどい状態だったろう。
 でも、仕方のない事だって解ってるけど構うよ。
 「家族」で「兄弟」だけど、「好きなひと」の前なのだから。
 汚れてないかなとか、汗臭くないかなとか、「女の子」じゃないのに気にするよ―――「女の子」じゃないから余計にだ。
 だって「僕」の身体はこんなに堅くてごつごつしてて、兄が望むような「優しさ」や「柔らかさ」なんてちっともない。
 兄を護る為に必要で、その為に鍛えた身体に後悔はない。医工騎士として後衛で援護に当たるだけでなく、竜騎士として「敵」を倒す為にこの身体が必要なのだ。 それは解っている―――解っている、けれど。
 こんな時だけは、筋肉が乗った腕を、銃胼胝がついた指を隠したい。
 これは僕がきっと一生捨てられない負い目だ。
 
「…そんなにみっともないかな、今の僕」
「雪男には変わんねーから、俺にはかんけーねーけどな」
「髪ぼっさぼさでも?」
「可愛い弟ってのは、そーゆーもんなの!」

 ―――可愛い。
 兄はよくその言葉を僕に対して使う事が多い。僕には「弟」がいないからよく解らないけれど、たとえ双子でも、世の中の「兄」は皆同じような事を言うのだろうか。
 ふと、何の気もなしに志摩家の兄弟を思い出す―――多分違うだろう。
 ならば、兄の頭の中のぼくは、まだ手も足も小さかったあの頃のままなのだろうか。
 昔考えた事と同じだ。結局、兄も僕もちっとも成長していないという事なのだろうか。

「……キライって言われてるのに」
「…それはちょっと寂しーけど、仕方ねーし、俺は好きだからいーんだよ」

 ――す、き。
 ―――好きって、――言った。解ってるけど、でも。

「…………バッカみたい。大馬鹿」

 そういう所が、敵わなくて、勝てなくて、大嫌いで

「………さっきね、昔の夢、見てた」
「……そっか」
「…喧嘩してた時の、夢。僕が兄さんに大っ嫌いって、言ってた」
「………うん」
「キライだよ、兄さんなんて。課題はやらないし指示は守らないし心配ばっかりかけるし」
「…そーだな」

 困った顔で兄が苦笑する。解っている、兄が指示を破る時も心配をかけるような事をする時も、それは自分の為じゃなくて、助けを求める「誰か」の為だ――だから自分でも止められない。兄自身も解っているのだろう。僕の言う事に一言の言い訳もしないで。
 したらいいのに。―――そんな事すら、当たり前の事過ぎて兄の中にはないのだ。
 ―――なんて

「売り言葉に買い言葉なんて、ずっと真に受けて信じてさ、ほんとバカ」
「あんまりバカバカ言うな。本当にバカになったらどーする」
「もうバカだろ」
「お前なぁ…」

 ―――なんて、優しい「悪魔」

「バカだけどさ…キライじゃないよ」
「ゆきお?」
「兄弟でしょ。解ってよ」

 解ってよ。僕は、―――僕はずっとずっと前から兄さんが

「解れって…お前なぁ。お前なんかいっつも俺に隠し事ばっかじゃんか」
「…そうかもね」
「…俺とあんな事シてんのにさ、結局好きな奴とか教えてくんねーし」
「……」

 

 「初めて」は僕から誘った。

 検診の際、「見ててあげるから一人でしてみなよ」そう言われても、嫌悪と恐怖に萎縮した僕のものは幾ら擦ってもコンドームを緩ませ小さく縮こまったままで。
 「仕方ないな」とラテックス製の手袋を嵌めた手指にワセリンを纏わりつかせて僕の中に入れられて、動物を触るように前立腺を刺激されて強制的に射精させられた。頭の奥が白く弾けるような熱さになす術もなく陥落させられて、自分の手で行うそれとは圧倒的に違う感覚におぼろげに留まる意識に聞こえた言葉の数々―――「性的刺激に弱いのも反応のひとつか、いっそ快感で理性をなくさせてみれば、彼の深層意識における興味深いデータが採れるかもしれない、面白いかもな」「そろそろ腸内粘液とサンプルの採取もいるか?」「まぁ待て、それより淫魔とするのはとんでもなくイイって聞くじゃないか。こいつも所詮「悪魔」だろう? 今ぐらいでこんなんじゃあ慣らすのなんてすぐだ」「そうだな、コンドームをつけてすれば粘膜接触は避けられるか」「どうせならクスコで強制的に開けるか?」
 このままではいずれ何をされるか嫌でも予想がつく。彼らにとって自分はただの「実験体」なのだ。幸か不幸か男同士でも性交の真似事が可能な事は知っている。自分が「男性体」である事など何の問題にもならないだろう。強制的に射精させられて、痛みの中に混じって感じた感覚の欠片に雪男は怖くなった。痛いだけならいい、けれど、いずれそれだけじゃなくなったら、自分の中だけに隠していたかったものもいずれ暴かれるのか。そう考えたら、心底怖くなった。犯される事よりも、犯された後の自分を。僕は変わるのか、変えられてしまうのか。変えられてしまうのなら、―――それならば。

 「僕」を変えるのは「兄さん」がいい。「兄」以外に、変えられたくはない。

 「好きなひと」とするのに何も解らないと嫌がられるかも。兄さん、お願い。練習になってよ。―――そう、言って。
 「兄弟」に欲情する「弟」だと知られればきっと軽蔑されてしまうだろう。だから、「男」が好きな「弟」として「兄」を誘った。

 「大丈夫。口と手だったら女の子と変わらないよ。全部僕がするから、兄さんはちょっとそのままでいてね」
 多分口淫を施されたのは初めてだったろう兄のものはそれほど時間もかからずに僕の咥内を塞ぎ、べとついた粘液が僕の口元を濡らし垂れていったけれど、僕にとっては汚いと思うどころか、「僕」に兄が欲情してくれた事が嬉しかった。後ろはワセリンでほぐせばいいと知りたくもなかった知識で懸命に指を入れて、出来るだけ兄に僕の「男」の部分を見せないようにと後ろ向きに跨った。「男」の「僕」には柔らかい肌も大きな胸も何もない。カーテンを引き電気も消して、真っ暗な中で探った熱が未だその堅さを保ったままなな事に泣きそうになる。あいつらの指とは違う圧倒的な熱と質量。みしみしと自分を引き裂いていく痛みと、「僕」に欲情したままの兄の熱が嬉しくて、少しでも「兄」を気持ちよくしたくて、痛みを無視して前後にと無我夢中に腰を揺らした。時折「兄」が中で触れる部分がびりびりと熱くて息が止まりそうになる。おそらくこれが「前立腺」だろう。「中」で「感じる」なんて女の子みたいだ、それとも僕も「悪魔」の血を引いているからなのだろうか。―――そんな事を考えていられたのも最初の内だけで、ただ僕に言われるまま動かずにいた兄が思い通りにならない身体に焦れたのか、唸るような声で僕を呼び、下から僕の腰を掴んで突き上げ始めてからは、もうはっきりとした記憶は残っていない。ただただ繰り返される摩擦と熱に、それが「気持ちいい」事だとすらよく解らずに、それでも、身体を埋める兄がぶるりと大きく震えた後、じわりと僕の中を濡らして染み込んでいった熱が、「僕」でも兄を気持ちよく出来たのだと、僕の「初めて」はあいつらじゃなくて「兄」で、僕を「変えた」のも「兄」で、最後の最後まで兄が「僕」の名前を呼んでくれた事が嬉しくて、未だ兄を身の内に咥え込んだままぼろぼろと泣き出した僕を見た兄が、慌てて僕から身を引いて、零れてきた精液と血に慌てて「悪い! やり過ぎた! 大丈夫か?!」と僕の顔を覗き込んできた時の表情は絶対一生忘れない。

 僕だけの「兄さん」―――僕だけの「初恋」。

 それから何度も「練習」と言っては兄を誘った。任務で血に塗れる度、検査と称して他の男の手が僕をまさぐる度、僕は兄の「熱」を求めた。
 初めの内は慣れない事もあってか、交合の痛みに僕が達せられない事もあって、そんな時は兄はひどく気を遣って謝ってくれたけど、そんな事は僕には問題ではなかった。
 「兄」が「僕」を抱いてくれる―――それだけで僕は満足だったのだから。
 やがて回数を重ねるにつれ、お互いの身体がセックスにも慣れ、この行為が僕にも痛みだけじゃなく気持ち良いものだと兄が理解してからは、「何となく」で身体を繋げる事も増えた。
 兄の世界に「僕」以外の人間が増えた今も、兄が「僕」を抱いてくれる理由はよく解らないけれど、きっと――「兄」なりの同情なのだろう。
 ―――「叶わない恋」を抱える「弟」への。

 

「…解んねーのに、シちまう俺もわりーけど。でも、俺は」
「兄さん」
「うん?」

 ―――兄さんだけが

「そういう鈍感なところ、嫌い」
「へ?」
「でも、好き」
「…ゆきお?」

 ―――兄さんだけが、好き

「昔兄さんが言った通りだね。二番目も三番目もないや」
「…なに、言って…」
「…僕、好きなひととしか、キスした事ないんだからね」
「ゆき」
「そりゃ身体はいろんな事あったけど」

 兄が「悪魔」に覚醒し、僕が「祓魔師」である事も公になった今となっては、僕が定期的に健診を受けさせられている事を兄も知っている。自分が付けたのではない「跡」を見て、はっきりとは解らないまでも、何事かは疑っている事だろう。

「自分からキスするのは、好きなひとにしかしない」

 ―――覚えてる? あの夜僕があなたに口付けた事を

「……」
「…気持ち悪いじゃないか。何で兄さん以外となんか」
「…おっまえ…お前、なぁ…。俺がどんな気持ちで…」
「抱いてくれた時、やったと思ったんだ。兄さん気持ちいい事好きでしょ?」
「……おい」

 真っ直ぐに合わせてくる兄の視線を笑ってそらそうとして、こちらを向けと髪をなぜられる。いつだってそうだ、いい加減なふりをしながら、兄は僕の「動かし方」をちゃんと知っていて、僕はそれに逆らえない。
 熱がまた上がってきたのだろうか、頭全体がぼうっと熱い。そんな状態でも、僕に触れて来る兄の手の方がもっと熱く感じる。

 ―――不思議だね、炎も出ていないのに。

 墓場まで持って行くつもりの秘密がぽろぽろと口から零れていく。兄は僕を見つめたまま微動だにしない。熱に浮かされた夢だろうか?
 夢ならばいい。兄が僕を厭わないのなら。いっそ夢であって欲しい。この時間がもう少しでも長く続いてくれるのなら。

「兄さんが気持ちいいなら、弟の僕でもいいかなって思ったんだ。身体だけでも、手に入れられるなら」
「………」
「こんな身体は嫌いだけど、でも兄さんを守る為には必要だし、兄さんを気持ちよくさせられるなら、いいかなって」
「雪男」
「…巨乳じゃなくて、悪いけど」

  あーもう! と、兄が僕の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。汗でべとついているのが自分でも解るのに、兄には平気なのだ。そんな事が、嬉しい―――夢じゃ、ないのかな。

「…じゃ、練習って…でもお前、初めてでもなかったよな…?」
「……うん。沢山嘘吐いて、沢山言えない事もしてきた。でも、これだけは、本当」

 もういい。全部熱の所為にする。だから信じて―――今だけでいい。
 明日になったら、―――全部忘れるから。
 今の僕は、熱の所為でおかしくなっているんだから。

「……雪男、だって…」
「自分からのキスは、好きなひととしか、しない。………こんな風に」

 すぐ傍にあった兄の唇に、盗むよう奪うよう自分のそれを押し付ける。
 伝わってくれたらいいのに。僕の気持ちも恋も何もかも。
 全部―――全部、兄さんに繋がっているんだって。

「………ゆ、き」
「…兄さんが、すき。ずっと前から、兄さんだけが、好き」
「………」
「…………ごめんね、こんな弟で。嘘吐きで、みっともなくて、どうしようもなくて」
「雪男」
「でも、好きなんだ。好きなだけだから、お願い、弟でだけはいさせて」

 実際には数十秒だろうに数十分にも感じた葛藤は、いつもと言えばいつもの通り、兄が折れてくれて終った。
 僕の「お願い」は高校生になった今でも有効らしい。ずるくてもいい。それで兄が「僕」を見てくれるなら。

「…あのなぁ」
「うん」
 
 兄がはぁっと大きく息を吐く。そうして、確認するようにゆっくりと口を開いた。

「お前は弟だろ。そんで俺が好きなの?」
「…うん」

 頷いた途端、兄が文字通り「キレた」
 尻尾の毛が怒った猫のようにぼわわっと逆立ち、ばしばしと両手で僕の布団を叩いている。……あの、ごめん、埃立つんだけどちょっと止めてくんないかな。
 こんな時にすらさらっと日常の思考が入ってしまうのが、僕らが過ごした十五年の結果だろう。

「……そーゆー事は早く言えよもう! 俺がどんっだけ悩んだと思ってんだお前。テストなんて目じゃねーぞ?!」
「うん」
「じゃー何だよ。昔お前が言ってた「好きなひと」って俺か。俺でいいのか」
「…うん」
「………俺だったのか……」
「…ごめんなさい」
「謝んな。そーゆーモンダイじゃねぇの」
「兄さん」

 がばっと身体を起こして半ば僕にのしかかってくる兄の瞳はただただ真っ直ぐに僕を見ていて。
 巫山戯ている訳ではないと解る態度に、どうしたらいいか解らなくなる。
 ―――だって。だって、兄さん。

「………俺には、ホントにそんなもんじゃねーの。くっそう俺か」
「……………」
「俺をどーやって殴んだよ。取りあえず悩んだ俺の青春責任取れ」
「……いいの?」
「何がだよ」
「僕、兄さんが好きなんだけど…」
「おう、それは聞いた」

 どうしてそこで笑うんだよ

「…きもち、わるくないの?」
「俺だってお前好きなんだから、あいこだろ」
「!」
「それとも何? 弟に欲情する兄ちゃんはきもちわりーかよ」
「ぜっ全然! だって…それ…僕…」

 まだ耳が言葉を聞くのを拒否している気がする。
 だって都合が良過ぎる。きっと熱に浮かされた夢だ。
 なのに兄は言うのだ。聞こえない振りなど許さないと、その視線で僕を拘束して。

「俺の「初恋」はお前だよ、雪男」
「にいさ」

 ―――そんで、二番目も三番目もないから覚悟しとけよ?

 お前具合悪いんだから、今はこれだけな? と、兄からされた触れるだけの口付けは、
 「初恋は実らない」
 僕が自分自身に掛けていた「呪い」を、いとも簡単に解いてしまった。

 ―――それはまるで、昔テレビで見た「ヒーロー」のように。

 

 


「初恋は実らない」
 何時だったろう、そんな台詞を何処かで聞いて
 「実らない」なんて誰が決めた、とその時思った
 「実らない」なんて、「終った恋」みたいじゃないか
 俺はずっと好きでいる
 お前をずっとずっと好きでいるよ
 「初恋」なんて言葉で終らせてやらねぇからな