【かごめかごめ】
「しまもと」
………呼ばれる度、じくりと痛い。
きっかけはひょんな誤解から。
その竹を割ったような潔さに見惚れた女性の隣に彼がいて、矢も盾も堪らず勝負を申し込んだ。
理由は今でもわからない。でも、あの瞬間感じたのだ。
───今ここで彼を越えなければ、これからの自分はずっと彼に囚われたままになると。
それまで自分の支えであった野球での勝負は、絡む自分に顔色ひとつ変えない男にあれよあれよと云う間に三振三つであっさりと片を付けられ、まだ若かった──若いが故に傲慢だった自分のプライドをいとも簡単にへし折った。
「それじゃ」と片手を上げて立ち去る彼が背を向ける間際、切れ長の一重をほんの少し引き上げて僅かに自分を見た気がするけれど、悔しくて腹立たしくてわざとそっぽを向いたから、本当のところどうなのかは自分でもはっきりわからない。
だってそれどころじゃなかった──彼がどこを見ているかなんて。
それからの二年間、彼を追って追って挑み続けてはただの一度もその頭を下げさせる事は叶わず、いつの間にやら潜水同好会にも入らされ──伸びると云った彼の言葉に悔しくて切なくて対等の勝負がしたくて──彼が卒業した後も、流れ聞こえてくる風聞に拳を握り、後を追って進んだ潜水士としての業務と訓練をこなしながら、彼が成し遂げた仕事の意味を知り──心が奮えた。
負けたくないと、男の勝負だと意地だと──それだけだと、思おうとした。
全国津々浦々に跨がる仕事だ、そう多くない支部を三年ごとに移動もされる。配属された第五管区では懐かしい顔にも会えた──もうその表情はかつての彼女とは違ってしまっていたけれど、過去に流されない強さを見せられ、死なない為にと鍛えられ、砂浜でビー玉を拾ったような、そんなささやかな嬉しさと名残惜しさは、いつしか救いたい生命を同じく見つめる上司への尊敬と畏怖へと変化した。もしかしたら、始めから「恋」ではなかったのかもしれない。いつでも真っ直ぐに生命と空に向き合い、鋼鉄の羽を自在に操ってみせ、そして必要とあらば鍛え上げた大の男ですら容赦なく蹴り飛ばす──そんな彼女を、若かりし自分はよくも自分へ振り向けだの考えたものだと思うと、改めてその無知無謀さに肝が冷える。
あの頃は、いつもきれいな三人の輪があった。
彼女への恋心だ男の意地だと名札を付けて、一見アンバランスに見えてその実おいそれと他者が入り込めないほどの絶妙な関係が──羨ましくて、妬ましくて、行き会えばもう勝負を吹っ掛けずにはいられなかった。
がむしゃらに随分と無礼をはたらいた自分を、彼等三人が三人共に許してくれていたのは知っていた。それでいい、そのままでいいのだと認めてくれていたのに、それは自分が欲しかったものではなくて、けれど何が欲しいのかも気付けぬまま、彼等の卒業まで、子どもの駄々のような意地を張り続けた。
仲間に入れて欲しかったのだと、
三人で完成されていた、あのきれいな輪に入りたかったのだと。
一人が二人を置き去りにして、もう永久に二人は二人のままで、三人で笑うことはもうなくて、もうあの輪は世界のどこからも消えてしまったと空を見上げて初めて───ようやく気付いた自分の望みは、その愚かさを罰するかのよう、何を捧げたとしても神様ですら叶えてはくれない。
そして自分を損ない悔いる事を、地上のひとも天上のひとも決して赦しはしない。
近況報告はおろか電話の一本、メールのひとつすら出来ず。葉書の一枚でも出せば生真面目な彼の事、記憶に残るかっちりとした筆跡で堅苦しい礼状でも寄越すだろうか。それとも、自分との記憶にもういない親友を思い出して、止まない痛みに愁眉をひそめるだろうか。
自分との記憶は、彼にとってどんな意味を持つのだろう。
あるいは単なる一後輩の事など、とっくに忘れてしまったのかもしれない。
決して多弁ではなかったけれど、基本的にひとに対して誠実に応する彼の周囲には、いつだって明るく陽気な親友と、その友人達が笑っていた。彼には不思議とひとを惹き付ける何かがあって、自分だけではない、何だかんだと勝負を申し込まれる事も多いのだと聞いた。
その中の一人に過ぎない自分の事など、彼にとってはいかほどのものか。
渦に飲み込まれるかのようぐるぐると廻る思考に、結局何を決断する事も出来ず、「今はそっとしておいた方がいい」と云った五十嵐の言葉に縋り付いて、もはやそれしかないのだと日々の業務と自己の鍛錬に努めた。
彼に勝つ。
彼を越える。
それは彼を地に伏せ頭を下げさせる事だろうか。彼の記録より優れたものを刻む事だろうか。自分は彼に褒めたたえて欲しいのだろうか、いや、取り立てて称賛の言葉が欲しいとは思わない。何故なら彼はいつも不器用に、けれど言葉足りずとも嘘やごまかしを云う事はないからだ。
何を云ってくれなくとも構わない、こっちを見て、一言───そこまで考えて、気付く。
言葉が欲しい訳ではないのだ。欲しいのは───。
ドクン──、と鼓動がひとつ、やけに響いて。
彼に、自分を見て欲しいのだ。気付いて欲しい。認めて欲しい。自分を「後輩」としてではなく「嶋本進次」として。対等な、ひとりの存在として。
彼に──「真田 甚」に。
世界にひとりの、「嶋本進次」として。
ああ、やはり囚われている
ドクンと、またひとつ鼓動が心臓を叩く。
気付け。もうわかっているだろう? 逃げるのか? 逃げてなどいない、彼から逃げるなど、どうして出来るものか。
見ないだけ──そう、見ていない。見ていないものは知りようがない。気付くも何も自分は知らないのだから。
勝負はまだついていない。彼の記録にいくら挑もうともそれは彼の預かり知らぬ事であって、挑んだ結果すら彼の元へは届かない。
届けていない──だって彼と哀しみを同じくする二人の内のひとりが、今はそっとしておけと云っていたのだから。
───今はまだ。
【かごのなかのとりは】
訓練、現場、反省、訓練、訓練、訓練……出来ない事は出来るように。出来る事はもっと早く、もっと確実に。
雨に打たれ、波に揉まれながら、ひとつひとつ積み上げた。生命を救えた喜びと、連れ帰るしか叶わない冷たい手。見たくもないもの、きっとこの仕事でさえなければ見なくて済んだだろうものを見て、ひとつひとつ、嶋本は真田の通った道程を辿った。
今の彼を形作ったものをひとつでも多く取り込みたくて、理解したくて。
これからも癒えることなどないだろう一番大きな傷は、それはきっと遺された二人だけのものであろうけれど、いつか、彼等三人の思い出話が出来たらいいと、呟きでもいい、彼が過去を振り返った時に、それを聞く事が出来るくらいの位置にいたいと、そう願って。
『シマがいてくれてよかった』
そう云って、寂し気ではあったけどそれでも笑ってくれた五十嵐の為に。
『真田君の傍に、いてあげて。彼には彼が考えるよりずっと、シマが必要だわ』
絶対よ、そう云った五十嵐の言葉が終えるより早く、うなづき返事を返した自分の為に。
『私には有がいるもの。会えないのは寂しいし、会ったらきっとボコボコになるまで蹴っちゃうけど、でも、有がいるから大丈夫』
「蹴っちゃう、んすか」「蹴るわよ。殴るより効くでしょ」
怒ってるんだから私、と五十嵐が微笑う。
でもね、と言葉を継いだ五十嵐につられて見上げた空は
どこまでも高く、そして遠い。
『真田君は、怒ることも出来ずに自分を責めてばかりいる。あれは事故だったのに、真田君にとってはそうじゃないのよ。』
『真田君には、誰もいないの。彼の傍には有がいたけど、彼は有のものじゃないし、有は私のものだから真田君にはあげない』
『真田君を見て、本当の真田君を知ってて、真田君が有と同じように笑ってた人間なんて、もうシマしかいないのよ』
『本当の…でも、それは俺やなくても、俺なんかよりずっと』
『シマは知ってる筈よ』
甲板を吹き抜ける風に捲き上げられる髪を抑えながら、五十嵐は直立する嶋本を真正面から見据えた。
『シマは知ってるわ。シマだけだわきっと。…シマが来ると、本当に嬉しそうだったもの。私達にだって、あんな顔しやしなかったわ』
懐かし気に見ていたのは、俺の顔やなくて、俺の後ろの「三人」やろなあ
『…これは、まだ内緒だけど』
『はい』
話すなと、薄い唇に人差し指を当てた貴女が命じるなら、俺はこのまま石になる。
『羽田に行くわ。真田君にね、約束は守る為にするんだって教えてやるの』
『おめでとうございます。…約束てどんなか聞いてもええですか?』
『真田君達にね、彼等がリペ降した時には私が吊り上げるって云ったの。彼は有に何て約束したのかしら。有は彼に何と云っていたかしら』
『………』
『シマとの勝負だってね。…待ってるぞって云ったのは真田君なのにね』
『覚えて…はりますでしょうか』
『忘れる筈ないわ。…でも、もしかしたら見えていないかもしれないから』
『見えていない、ですか?』
先々月だったかしらね、羽田に給油で降りたの。
さほど表情を崩さずに話す風情が彼とだぶる。それでも微かにひそめた眉が、彼を心配しているのだと如実に表していて。
そうだ、言葉は少ないけれど、態度はとても厳しいけれど、このひとはとてもとてもやさしいひとで、いつだって大切な誰かを死なせない為に、大切な誰かを失わせない為に、鋼鉄の翼を駆って空へと飛び立つ。
とてもとてもやさしいのに、とてもとても不器用で。
今はいないひとりを挟んで、彼女と彼はとてもよく似ていた事を、今更のように思い出す。
傍目には図々しく見える程暢気に笑いながら、きっと彼のひとは二人の事をちゃんと分かっていたのだろう。
分かっていたからこそ、知らないふりで、二人の間で笑って。
その明るさに二人がどれ程救われていたか、今更思い返して胸が痛くなる。──本当に、今更だ。
───彼は、ちゃんと分かっているのだろうか
『丁度訓練から戻ってきてた三隊とすれ違ったの。声を掛けたのだけど、無視されてしまったわ』
『疲れてはったんと違いますか?』
『そうじゃないわ。真田君は真田君ですらなかったの』
あんな顔をさせる為に、有はトッキューを目指したんじゃないわ。
───だから、
『シマには悪いけど、一足先に殴りに行くわ』
『悪いと思うてへんでしょう』
『それでも』
あの時の五十嵐の顔を、きっと自分は一生忘れない
『鍵を壊す事は出来ても、私じゃ引き摺り出す事は出来ないから』
『機長』
『さっさと来なさい。勝ちたいのは真田君になんでしょう?』
『はい!』
満足そうに、ひょいと方眉だけ上げて微笑む面差しが懐かしい。
血縁などないと聞いているが、言動のよく似た先輩方二人は何故かその風貌までどこか似ていて。
お世辞でも何でもなく『美しい』部類に入る五十嵐の顔を見て、いつもどこか世間からズレていたもうひとりを思い出すとは、さすがに五十嵐に申し訳なく思う。バレたらきっと焼肉程度では許してもらえないだろう。
───逢いたい
久し振りに、そう、思う。
送別会の幹事は特別にシマにさせてあげる。ちゃんと美味しくて満足するまで食べられる店にしなさい。
堂々と云い放って潮風に髪を靡かせる五十嵐は、正しく空の戦女神たりえた。自重4800Kgを越えるピューマをその細腕で自在に操り、屈強な兵士を連れて戦場へ立ち向かう。
───逆光が、眩しい。
『機長』
『何?』
目の前に凛々しく立つこのひとに、
天上で暢気に笑う彼のひとに、
離れた地で、きっと前だけを見据えているんだろうあのひとに、
──出逢えた偶然を、同じ時間を過ごせた運命を、
これから何があったとしても、けして自分は怨みはしないだろう。
『俺、やっぱり機長が好きですわ』
『そう。一番じゃないなら要らないわよそんなの』
一番だとしても間に合ってるから要らないけど。
いつもの口調で切り捨てて、颯爽と歩き去る背中には迷いなどどこにも見えない。
『はは、さすがや。勝てへんなあ』
───さっさと来なさい。
『はい、機長。約束しますわ』
もう、知らんふりは止めます
『さーって! いっちょ気合い入れるかあ!』
───競技会まで、あと、少し。