【櫻の花の 満開の下】
「おーい、ユミちゃん、ここやここ!」
聞き慣れた声がする。
濁った都会の空気を割るすっきりと乾いた声色に、弓生は微かに微笑んだ。
永い永い年月を共に歩いて来た。苦しい時も辛い時も………楽しい時も。
自ら人を喰らって『鬼』になった。
闇を産み、噴き出した憎しみに捕われて、そうして。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。
彼の人の想いを背負い、朝廷を人々を灼き滅ぼし、憎悪の蒼念を閃光に換えて。
懲り凝った恨みだけを抱き締めて、彼の人の最後を看取った者として。
流浪の果てに死んだ菅原道真の化生として、時の人々は恐れおののき、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、彼を『雷電』と名付けた。
だが、誰も気付かなかった。
都を焼き、人々を灼きながら、『雷電』が哭いていたことなど。
『鬼』が哭いていたことなど。
誰も、見つけなかった。
本当の『雷電』を、本当の『土師高遠』を。
─────阿部晴明の他には。
人間にとって、決して短くは無い時間を掛けて、あの人は自分を救ってくれた。
『雷電』を、『土師高遠』を解き放ってくれたのだ。
そして。
晴明が此の世の人ではなくなってから、千年。
千年、彼の傍らには、聖が在る。
晴明が亡くなった悲しみを忘れた訳では無い。あの凄惨な様は、今も脳裏に焼き付いて離れない。その痛みも、憾みも。
再び憎しみに捕われかけた自分に彼──当時『鬼同丸』は云ったのだ。
ずっと傍に在ると、共に生きると。
絶対に彼を一人にしないと。
時が流れ時代が変わり、都は『東京』と改められ、行き交う人々と共に『姿』も『名』も替わっても何一つ替わる事無く、彼──聖は傍らに在る。
千年を共に歩いて、聖の事ならば何でも解っていると思う。嫌な処も、良い処も。
些細な事やくだらない事で、数えきれぬ程諍いもした。千年は確かに永い時間だが、苦しい事ばかりでもなくて、楽しかった事も少なからずあって、遠くけぶる時間に意識を還せば、癖のある髪を一つに結い上げ、泥に塗れた袴姿で『鬼同丸』が笑っている。『雷電』の雷で魚くらい焼けないのかと、どうしても食事の仕度が上手く出来ない自分に向かって、彼はよく文句を付けた。
今でもたまに云ってくるな。───いい加減諦めたらいいのに。
怒った顔も困った顔も、笑った顔も泣いた顔も、全て知っている。
────遠い昔の、彼の恋も。
その結末も。
嬉しそうに手を振る聖に、『鬼同丸』が同じ笑顔で笑う。
───見てみい高遠。ひっさしぶりにこーんな太った兎が引っ掛かりよったで。
最近は兎も滅多に食べなくなった。最後に野宿をしたのは何時頃だったろうか。
無意識に歩調を速めつつ聖の許へ向かおうとして、弓生はやっと周囲の視線に気がついた。
聖がくったくなく笑う。無論彼に悪気などある筈もなくて、ぶんぶんと大きく手を振っている。
「その呼び方はやめろと云っているだろう。弓生でいい」
怒ったふりも通じない。自分が彼を知り尽くしているように、彼もまた、弓生の事を知り尽くしている。伊達に千年もの間共に生きてきた訳ではないのだ。
しかしながら『ユミちゃん』とまるで女子供のような呼び方をするから、衆人環視の中で呼ばれるにはいくら弓生といえども恥ずかしいという感情はある訳で、明治の間中ずっと云い聞かせてきたのに、さりとて聖はお構い無しで、何時何処で誰の前だろうと彼を呼ぶ。
彼だけを、喚ぶのだ。
全くもって敵わない。大正に入って弓生の方が諦めた。もともと聖は妙に頑固で、自分が是と気に入った事は絶対に引かない。そうして『鬼同丸』は『酒呑童子』になった。
成長しない子供だな。いや、成長していないのは俺の方か。
聖が笑う。自分はいつも顰め面しい顔しか出来ない。笑える筈なのに。
笑っていた、筈なのに。
聖に甘えているのかもしれないと、弓生は思う。
感情を表に出すのが苦手で、どんなに冷たい素振りで突き放しても、ちゃんと聖は解ってくれているから、自分は『志島弓生』でいる事が出来る。どんな事でも、出来る。
………最初に出逢った時は、只の無礼な奴だったのにな………。
前方で手を振る聖に気付かれぬよう苦笑する。聖は目が良い。解っているだろうが、知っているだろうが、それでも、今自分がこんな事を考えているだなんて、とても聖には教えられない。
だから、ほんの少しだけ嘘を吐こう。もちろん『ユミちゃん』については今現在も訂正を希望する処だが、それだけを気にしているかのように、冷静に、平然と。
意図的に表情を殺す弓生に聖は微笑った。弓生が不器用なのはいつもの事だとでも云うように。
「ええやん。ユミちゃん、それでのうても愛想悪いんやから、せめて名前だけでもかわいくせんと」
勿論、聖だとて解っている。
騙されてやんのも愛情やでと云わんばかりに、手に持つハンバーガーに齧り付いてみせた。
千年を経て現代に潜む鬼達の、それは、一瞬のひととき。