廃園

一次二次創作を含む世迷言です。何でも許せる方のみどうぞ。あくまで個人的な発言につき、転載、引用はお断り致します。

【NO TITLE】

 

 
 狂騒のピエロと流血の異形、博愛を投げ売りする娼婦が三人でステップを踏み鳴らす街──ヘルサレムズ・ロット。くるくると、およそ重力や慣性と呼ばれる人界の物理的法則なぞかくや、と思わせる動きに踏みにじられた草は、泥酔した人間の声で薄汚い悲鳴を上げた。彼等の足に食い込んだ血色の靴は、霧晴れぬ今も尚、未だそのダンスを停める事を赦さない。

 

 全ての耳目から隔てるように沸き起こり立ち籠めた濃密な霧は、元「紐育」と呼ばれていた都市をすっぽりと覆い隠し、生き物の視線だけではなく、物理光学的、あるいは魔術的なピーピング・トムでさえ遮ってみせた。
 夜である筈の時間、何故か闇さえ薄暗く見せる半円上に街を包んだくすむ紗の内側で、後に大崩落と再構築と呼ばれる「組み替え」が行われていた事を、その瞬間その場にいた者だけが、宙を舞う摩天楼の「欠片」と共に呆然と空を見上げ見守っていた。否、見守る事しか出来なかったと言うのが正しい。まるで紙テープのごとくしなり千切れる路面にしがみ付き、必死に覗いた先にはある筈の大地もアスファルトも「何も」見えなかった。あちらこちらで曲がりきれずに歪んだ建物に衝突する車と、噴き上がる爆炎に流れる液体はもはや何色もの色が混じり合い、てらてらとぬめったタールのような色をしていた。霞む視界の向うに助けを求めて伸ばした手が、映画の中でしか見た事のない異形に齧り取られる。モニタの向う、スクリーンの向うだった筈の別世界。どんなに精巧でも作り物の物語ならば、主人公は絶対に死ぬ事はなかったし、最後に世界は救われる筈だった。痛みは既に許容範囲を越え、わんわんと脳内で無秩序な反響が響き渡る。背中に食い込む「なにものか」の「尖ったもの」や、水に沈む紙のような柔らかさで衣服を浸食する粘液が「何」であるか考える事を放棄した脳は、ただ闇雲に前を見る事を指示し、ぐちゃりと柔らかいものが潰れた音を最後に男の正気は途絶えた。最後までもの恐怖からの逃避は、神が嘲笑う皮肉か、悪魔からの慈悲か。其処彼処で繰り広げられる悲劇と喜劇のリミックスは、居合わせた「普通」の人々の常識と理性の箍をいとも容易く外し、正気の隙間には異界の空気がそっと忍び込んだ。
 
 たった三年前の一夜。人々の歴史においては一瞬にも満たない時間。昇る陽を遮るかのように乱立する高層ビル群は、既に昨日までの記憶とは別の世界の入り口でもあった。
 そうしてあの朝から三年間もの日々を、人界諸共ともすれば異界へと転げ落ちそうなバランスを必死に手繰り寄せながら、人々はそれでも泣き笑い怒り愛し合いながら生きている。


 三年前のあの日、あの時、牙狩り本部から依頼されていた調査の為に、丁度「彼」と紐育に滞在していて巡り会わせた世界の狭間。天秤の中心点。傾く竿のどちらにも落ちずに歩ききる事が出来たのは、隣においては共に先を見つめ、背後においては背を護ってくれる紅茶色の瞳が常に傍らにいてくれたからに他ならない。

「──? 僕の顔に何か付いてるかい? クラウス」
「いや、すまない」
 ──少し思い出していただけだ。
 
 思い出話を語るには早過ぎるだろうと、執務机で書類を手に取ったままの「彼」が笑う。
 思い出していたのは三年前のあの日だが、それ以前の日々からも、「彼」は変わったようで変わらない。少なくとも──私の中の「彼」は。
 優しいだけではない紅茶色の苛烈さと美しさに、私は未だ囚われたままで。
 囚われている事が幸福なのだと、私を「融通の利かない頑固者」だと評する「彼」に話したら、彼は一体どんな顔をするだろうか。

 

 初めて会った「彼」は、私より少し背の高い少年だった。
 当時は知らず──「友人」という名の「影」として、情緒を学ぶ先達という名の「護衛」として父の使いの背後から現れた「彼」は、細身のスラックスに包まれた脚をゆっくりと折り──頭を下げた。
 私達の背丈を越えた大人の都合による──それが私達の「初対面」だった。

 物心ついた頃から既に私の記憶にはギルベルトがその姿を片隅に溶かしている。母は優しいひとであったが、その手で私と触れ合う事はとんと少なかったように思う。今思えば父の名代としてラインヘルツ家の「表」の顔である事に多忙であり、また私の中に脈々と流れる「ラインヘルツ」を護るだけの戦闘能力を持たなかった彼女は、彼女に出来る最大の愛情表現として、私にギルベルトを出会わせてくれた。小さい子どもでしかなかった当時の私にも、年若いハウスメイドが誇らし気に語る「歴代コンバット・バトラー最強の男」が当代当主である父の傍に付いていない事が不思議で、その優秀だと褒めそやされる能力が、未だ何も出来ないに等しい自分の世話に費やされる事が申し訳なくて、何度も自室の隅に控える男に頭を下げようとしたけれど、その度に男は小さい私の足元に膝を付き、柔らかく微笑みながら言ってくれたのだ。
「私は大旦那様に命令された訳でも、奥様に申し付けられた訳でもなく、私自身が貴方を──『クラウス・V・ラインヘルツ』様を私の『主』に定めたのです。今はこの手もお小さく、身体も私より柔らかくございますが、いずれすぐに私の背など追い越しておしまいになるでしょう。それまではどうか、このギルベルトから坊っちゃまのお世話をさせて戴く楽しみを取り上げないでいて戴けませんでしょうか」──と。
 小さい子どもでしかない私の手を取り、主筋の命令ではなく貴族に連なる者でもなく、ただひとりの「クラウス・V・ラインヘルツ」として扱ってくれた男は、その髪色が銀を帯び、姿を覆う包帯が増えた今でも、変わらず空気のような自然さで静かに佇んでいる。

 父の代わりに読めない単語の意味を語り、母に代わってシーツを引いてくれた白い手袋の持ち主が、「坊っちゃまに会って戴きたい御方がいるのです」──と、私を庭園の奥にある薔薇用の温室へ誘ったのは、私が丁度ブレングリード流血闘術を学び始めたすぐの頃であった。