廃園

一次二次創作を含む世迷言です。何でも許せる方のみどうぞ。あくまで個人的な発言につき、転載、引用はお断り致します。

【雑文】コイノウタ

 

 

 

 

++ コイノウタ ++

 

 

 恋をしている
 何時だってキミに恋をしている


 見つめる視線で
 霞める甘い香りで
 溢れる吐息で
 触れた指先で


 この瞬間ですらキミが愛しい


 キミが欲しい
 キミだけが欲しい


 笑うキミが愛しい
 泣くキミが恋しい


 何処までいっても止まらないこのキモチは
 きっとキミにすら止められない


 キモチの全部でキミが欲しい

 恋をうたえ


 愛を叫べ
 恋を囁け


 カラダの全部でキミを抱き締めて
 ココロの全部でキミを捕まえろ


 恋をうたえ

 キモチの全部で好きだと伝えろ

 恋をうたえ

 いっそこの胸を裂いて見せられたなら


 キミがいなけりゃ生きていけない
 心臓なんて簡単に止まる

 逃がすつもりも予定もないけど
 逃げても絶対捕まえる

 キミが何処で何をしたって
 ボクの全部をキミが持っていってしまっているんだから

 抜け殻のボクはキミの中のボクの恋を追いかけるだけ


 恋をうたえ

 何時だってキミに恋をしている

 恋をうたえ

 この瞬間もキミに恋し続けている


 昨日より今日
 今日より明日
 一瞬前よりももっと愛してる

 限界なんて何処にもなくて
 ボクの全部でキミに恋してる


 恋をうたえ

 カラダの全部で愛しいと叫べ
 ココロの全部で恋しいと囁け

 恋をうたえ

 キモチの全部で恋しいとうたえ

 誰でもないキミ一人に
 世界中に聞こえるように


 恋をうたえ

 塞がれた耳のその隙間から
 恋しいキモチがキミに届くように

 恋をうたえ

 信じないと閉じられた扉の
 鍵穴からキミを蕩かすように


 恋をうたえ

 恋しいのだとそれだけをキミに叫ぶ

 

 

 

【かごめかごめ】


「しまもと」


 ………呼ばれる度、じくりと痛い。

 


 きっかけはひょんな誤解から。
 その竹を割ったような潔さに見惚れた女性の隣に彼がいて、矢も盾も堪らず勝負を申し込んだ。
 理由は今でもわからない。でも、あの瞬間感じたのだ。
 ───今ここで彼を越えなければ、これからの自分はずっと彼に囚われたままになると。
 それまで自分の支えであった野球での勝負は、絡む自分に顔色ひとつ変えない男にあれよあれよと云う間に三振三つであっさりと片を付けられ、まだ若かった──若いが故に傲慢だった自分のプライドをいとも簡単にへし折った。
 「それじゃ」と片手を上げて立ち去る彼が背を向ける間際、切れ長の一重をほんの少し引き上げて僅かに自分を見た気がするけれど、悔しくて腹立たしくてわざとそっぽを向いたから、本当のところどうなのかは自分でもはっきりわからない。
 
 だってそれどころじゃなかった──彼がどこを見ているかなんて。


 それからの二年間、彼を追って追って挑み続けてはただの一度もその頭を下げさせる事は叶わず、いつの間にやら潜水同好会にも入らされ──伸びると云った彼の言葉に悔しくて切なくて対等の勝負がしたくて──彼が卒業した後も、流れ聞こえてくる風聞に拳を握り、後を追って進んだ潜水士としての業務と訓練をこなしながら、彼が成し遂げた仕事の意味を知り──心が奮えた。
 負けたくないと、男の勝負だと意地だと──それだけだと、思おうとした。
 全国津々浦々に跨がる仕事だ、そう多くない支部を三年ごとに移動もされる。配属された第五管区では懐かしい顔にも会えた──もうその表情はかつての彼女とは違ってしまっていたけれど、過去に流されない強さを見せられ、死なない為にと鍛えられ、砂浜でビー玉を拾ったような、そんなささやかな嬉しさと名残惜しさは、いつしか救いたい生命を同じく見つめる上司への尊敬と畏怖へと変化した。もしかしたら、始めから「恋」ではなかったのかもしれない。いつでも真っ直ぐに生命と空に向き合い、鋼鉄の羽を自在に操ってみせ、そして必要とあらば鍛え上げた大の男ですら容赦なく蹴り飛ばす──そんな彼女を、若かりし自分はよくも自分へ振り向けだの考えたものだと思うと、改めてその無知無謀さに肝が冷える。


 あの頃は、いつもきれいな三人の輪があった。
 彼女への恋心だ男の意地だと名札を付けて、一見アンバランスに見えてその実おいそれと他者が入り込めないほどの絶妙な関係が──羨ましくて、妬ましくて、行き会えばもう勝負を吹っ掛けずにはいられなかった。
 がむしゃらに随分と無礼をはたらいた自分を、彼等三人が三人共に許してくれていたのは知っていた。それでいい、そのままでいいのだと認めてくれていたのに、それは自分が欲しかったものではなくて、けれど何が欲しいのかも気付けぬまま、彼等の卒業まで、子どもの駄々のような意地を張り続けた。

 仲間に入れて欲しかったのだと、
 三人で完成されていた、あのきれいな輪に入りたかったのだと。

 一人が二人を置き去りにして、もう永久に二人は二人のままで、三人で笑うことはもうなくて、もうあの輪は世界のどこからも消えてしまったと空を見上げて初めて───ようやく気付いた自分の望みは、その愚かさを罰するかのよう、何を捧げたとしても神様ですら叶えてはくれない。
 そして自分を損ない悔いる事を、地上のひとも天上のひとも決して赦しはしない。


 近況報告はおろか電話の一本、メールのひとつすら出来ず。葉書の一枚でも出せば生真面目な彼の事、記憶に残るかっちりとした筆跡で堅苦しい礼状でも寄越すだろうか。それとも、自分との記憶にもういない親友を思い出して、止まない痛みに愁眉をひそめるだろうか。
 
 自分との記憶は、彼にとってどんな意味を持つのだろう。
 あるいは単なる一後輩の事など、とっくに忘れてしまったのかもしれない。

 決して多弁ではなかったけれど、基本的にひとに対して誠実に応する彼の周囲には、いつだって明るく陽気な親友と、その友人達が笑っていた。彼には不思議とひとを惹き付ける何かがあって、自分だけではない、何だかんだと勝負を申し込まれる事も多いのだと聞いた。
 その中の一人に過ぎない自分の事など、彼にとってはいかほどのものか。

 渦に飲み込まれるかのようぐるぐると廻る思考に、結局何を決断する事も出来ず、「今はそっとしておいた方がいい」と云った五十嵐の言葉に縋り付いて、もはやそれしかないのだと日々の業務と自己の鍛錬に努めた。

 彼に勝つ。
 彼を越える。

 それは彼を地に伏せ頭を下げさせる事だろうか。彼の記録より優れたものを刻む事だろうか。自分は彼に褒めたたえて欲しいのだろうか、いや、取り立てて称賛の言葉が欲しいとは思わない。何故なら彼はいつも不器用に、けれど言葉足りずとも嘘やごまかしを云う事はないからだ。
 何を云ってくれなくとも構わない、こっちを見て、一言───そこまで考えて、気付く。
 言葉が欲しい訳ではないのだ。欲しいのは───。


 ドクン──、と鼓動がひとつ、やけに響いて。
 彼に、自分を見て欲しいのだ。気付いて欲しい。認めて欲しい。自分を「後輩」としてではなく「嶋本進次」として。対等な、ひとりの存在として。


 彼に──「真田 甚」に。
 世界にひとりの、「嶋本進次」として。


 ああ、やはり囚われている


 ドクンと、またひとつ鼓動が心臓を叩く。

 気付け。もうわかっているだろう? 逃げるのか? 逃げてなどいない、彼から逃げるなど、どうして出来るものか。
 見ないだけ──そう、見ていない。見ていないものは知りようがない。気付くも何も自分は知らないのだから。
 勝負はまだついていない。彼の記録にいくら挑もうともそれは彼の預かり知らぬ事であって、挑んだ結果すら彼の元へは届かない。
 届けていない──だって彼と哀しみを同じくする二人の内のひとりが、今はそっとしておけと云っていたのだから。
 ───今はまだ。

 

 

 

【かごのなかのとりは】

 

 

 


 訓練、現場、反省、訓練、訓練、訓練……出来ない事は出来るように。出来る事はもっと早く、もっと確実に。
 雨に打たれ、波に揉まれながら、ひとつひとつ積み上げた。生命を救えた喜びと、連れ帰るしか叶わない冷たい手。見たくもないもの、きっとこの仕事でさえなければ見なくて済んだだろうものを見て、ひとつひとつ、嶋本は真田の通った道程を辿った。
 今の彼を形作ったものをひとつでも多く取り込みたくて、理解したくて。
 これからも癒えることなどないだろう一番大きな傷は、それはきっと遺された二人だけのものであろうけれど、いつか、彼等三人の思い出話が出来たらいいと、呟きでもいい、彼が過去を振り返った時に、それを聞く事が出来るくらいの位置にいたいと、そう願って。
 
『シマがいてくれてよかった』

 そう云って、寂し気ではあったけどそれでも笑ってくれた五十嵐の為に。

『真田君の傍に、いてあげて。彼には彼が考えるよりずっと、シマが必要だわ』

 絶対よ、そう云った五十嵐の言葉が終えるより早く、うなづき返事を返した自分の為に。

『私には有がいるもの。会えないのは寂しいし、会ったらきっとボコボコになるまで蹴っちゃうけど、でも、有がいるから大丈夫』

 「蹴っちゃう、んすか」「蹴るわよ。殴るより効くでしょ」
 怒ってるんだから私、と五十嵐が微笑う。

 でもね、と言葉を継いだ五十嵐につられて見上げた空は
 どこまでも高く、そして遠い。

『真田君は、怒ることも出来ずに自分を責めてばかりいる。あれは事故だったのに、真田君にとってはそうじゃないのよ。』

『真田君には、誰もいないの。彼の傍には有がいたけど、彼は有のものじゃないし、有は私のものだから真田君にはあげない』
『真田君を見て、本当の真田君を知ってて、真田君が有と同じように笑ってた人間なんて、もうシマしかいないのよ』

『本当の…でも、それは俺やなくても、俺なんかよりずっと』

『シマは知ってる筈よ』

 甲板を吹き抜ける風に捲き上げられる髪を抑えながら、五十嵐は直立する嶋本を真正面から見据えた。

『シマは知ってるわ。シマだけだわきっと。…シマが来ると、本当に嬉しそうだったもの。私達にだって、あんな顔しやしなかったわ』

 懐かし気に見ていたのは、俺の顔やなくて、俺の後ろの「三人」やろなあ

『…これは、まだ内緒だけど』

『はい』

 話すなと、薄い唇に人差し指を当てた貴女が命じるなら、俺はこのまま石になる。

『羽田に行くわ。真田君にね、約束は守る為にするんだって教えてやるの』

『おめでとうございます。…約束てどんなか聞いてもええですか?』

『真田君達にね、彼等がリペ降した時には私が吊り上げるって云ったの。彼は有に何て約束したのかしら。有は彼に何と云っていたかしら』

『………』

『シマとの勝負だってね。…待ってるぞって云ったのは真田君なのにね』

『覚えて…はりますでしょうか』

『忘れる筈ないわ。…でも、もしかしたら見えていないかもしれないから』

『見えていない、ですか?』

 先々月だったかしらね、羽田に給油で降りたの。
 さほど表情を崩さずに話す風情が彼とだぶる。それでも微かにひそめた眉が、彼を心配しているのだと如実に表していて。

 そうだ、言葉は少ないけれど、態度はとても厳しいけれど、このひとはとてもとてもやさしいひとで、いつだって大切な誰かを死なせない為に、大切な誰かを失わせない為に、鋼鉄の翼を駆って空へと飛び立つ。

 とてもとてもやさしいのに、とてもとても不器用で。

 今はいないひとりを挟んで、彼女と彼はとてもよく似ていた事を、今更のように思い出す。
 傍目には図々しく見える程暢気に笑いながら、きっと彼のひとは二人の事をちゃんと分かっていたのだろう。
 分かっていたからこそ、知らないふりで、二人の間で笑って。
 その明るさに二人がどれ程救われていたか、今更思い返して胸が痛くなる。──本当に、今更だ。

 ───彼は、ちゃんと分かっているのだろうか

『丁度訓練から戻ってきてた三隊とすれ違ったの。声を掛けたのだけど、無視されてしまったわ』
『疲れてはったんと違いますか?』

『そうじゃないわ。真田君は真田君ですらなかったの』

 あんな顔をさせる為に、有はトッキューを目指したんじゃないわ。
 ───だから、

『シマには悪いけど、一足先に殴りに行くわ』
『悪いと思うてへんでしょう』
『それでも』

 あの時の五十嵐の顔を、きっと自分は一生忘れない

『鍵を壊す事は出来ても、私じゃ引き摺り出す事は出来ないから』

『機長』

『さっさと来なさい。勝ちたいのは真田君になんでしょう?』

『はい!』

 満足そうに、ひょいと方眉だけ上げて微笑む面差しが懐かしい。
 血縁などないと聞いているが、言動のよく似た先輩方二人は何故かその風貌までどこか似ていて。
 お世辞でも何でもなく『美しい』部類に入る五十嵐の顔を見て、いつもどこか世間からズレていたもうひとりを思い出すとは、さすがに五十嵐に申し訳なく思う。バレたらきっと焼肉程度では許してもらえないだろう。

 ───逢いたい
 久し振りに、そう、思う。

 送別会の幹事は特別にシマにさせてあげる。ちゃんと美味しくて満足するまで食べられる店にしなさい。
 堂々と云い放って潮風に髪を靡かせる五十嵐は、正しく空の戦女神たりえた。自重4800Kgを越えるピューマをその細腕で自在に操り、屈強な兵士を連れて戦場へ立ち向かう。
 ───逆光が、眩しい。

『機長』
『何?』

 目の前に凛々しく立つこのひとに、
 天上で暢気に笑う彼のひとに、
 離れた地で、きっと前だけを見据えているんだろうあのひとに、

 ──出逢えた偶然を、同じ時間を過ごせた運命を、
 これから何があったとしても、けして自分は怨みはしないだろう。

『俺、やっぱり機長が好きですわ』

『そう。一番じゃないなら要らないわよそんなの』

 一番だとしても間に合ってるから要らないけど。
 いつもの口調で切り捨てて、颯爽と歩き去る背中には迷いなどどこにも見えない。

『はは、さすがや。勝てへんなあ』

 ───さっさと来なさい。

『はい、機長。約束しますわ』
 
 もう、知らんふりは止めます


『さーって! いっちょ気合い入れるかあ!』

 ───競技会まで、あと、少し。


【櫻の花の 満開の下】

 

 

 

 

 


「おーい、ユミちゃん、ここやここ!」

 聞き慣れた声がする。
 濁った都会の空気を割るすっきりと乾いた声色に、弓生は微かに微笑んだ。
 永い永い年月を共に歩いて来た。苦しい時も辛い時も………楽しい時も。

 自ら人を喰らって『鬼』になった。
 闇を産み、噴き出した憎しみに捕われて、そうして。
 どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 彼の人の想いを背負い、朝廷を人々を灼き滅ぼし、憎悪の蒼念を閃光に換えて。
 懲り凝った恨みだけを抱き締めて、彼の人の最後を看取った者として。
 流浪の果てに死んだ菅原道真の化生として、時の人々は恐れおののき、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、彼を『雷電』と名付けた。

 だが、誰も気付かなかった。
 都を焼き、人々を灼きながら、『雷電』が哭いていたことなど。
 『鬼』が哭いていたことなど。
 誰も、見つけなかった。
 本当の『雷電』を、本当の『土師高遠』を。

 ─────阿部晴明の他には。

 人間にとって、決して短くは無い時間を掛けて、あの人は自分を救ってくれた。
 『雷電』を、『土師高遠』を解き放ってくれたのだ。
 そして。
 晴明が此の世の人ではなくなってから、千年。

 千年、彼の傍らには、聖が在る。

 晴明が亡くなった悲しみを忘れた訳では無い。あの凄惨な様は、今も脳裏に焼き付いて離れない。その痛みも、憾みも。
 再び憎しみに捕われかけた自分に彼──当時『鬼同丸』は云ったのだ。
 ずっと傍に在ると、共に生きると。

 絶対に彼を一人にしないと。

 時が流れ時代が変わり、都は『東京』と改められ、行き交う人々と共に『姿』も『名』も替わっても何一つ替わる事無く、彼──聖は傍らに在る。
 千年を共に歩いて、聖の事ならば何でも解っていると思う。嫌な処も、良い処も。
 些細な事やくだらない事で、数えきれぬ程諍いもした。千年は確かに永い時間だが、苦しい事ばかりでもなくて、楽しかった事も少なからずあって、遠くけぶる時間に意識を還せば、癖のある髪を一つに結い上げ、泥に塗れた袴姿で『鬼同丸』が笑っている。『雷電』の雷で魚くらい焼けないのかと、どうしても食事の仕度が上手く出来ない自分に向かって、彼はよく文句を付けた。
 今でもたまに云ってくるな。───いい加減諦めたらいいのに。
 怒った顔も困った顔も、笑った顔も泣いた顔も、全て知っている。

 ────遠い昔の、彼の恋も。
 その結末も。

 嬉しそうに手を振る聖に、『鬼同丸』が同じ笑顔で笑う。
 ───見てみい高遠。ひっさしぶりにこーんな太った兎が引っ掛かりよったで。
 最近は兎も滅多に食べなくなった。最後に野宿をしたのは何時頃だったろうか。
 無意識に歩調を速めつつ聖の許へ向かおうとして、弓生はやっと周囲の視線に気がついた。
 聖がくったくなく笑う。無論彼に悪気などある筈もなくて、ぶんぶんと大きく手を振っている。

「その呼び方はやめろと云っているだろう。弓生でいい」

 怒ったふりも通じない。自分が彼を知り尽くしているように、彼もまた、弓生の事を知り尽くしている。伊達に千年もの間共に生きてきた訳ではないのだ。
 しかしながら『ユミちゃん』とまるで女子供のような呼び方をするから、衆人環視の中で呼ばれるにはいくら弓生といえども恥ずかしいという感情はある訳で、明治の間中ずっと云い聞かせてきたのに、さりとて聖はお構い無しで、何時何処で誰の前だろうと彼を呼ぶ。

 彼だけを、喚ぶのだ。

 全くもって敵わない。大正に入って弓生の方が諦めた。もともと聖は妙に頑固で、自分が是と気に入った事は絶対に引かない。そうして『鬼同丸』は『酒呑童子』になった。
 成長しない子供だな。いや、成長していないのは俺の方か。
 聖が笑う。自分はいつも顰め面しい顔しか出来ない。笑える筈なのに。
 笑っていた、筈なのに。
 聖に甘えているのかもしれないと、弓生は思う。
 感情を表に出すのが苦手で、どんなに冷たい素振りで突き放しても、ちゃんと聖は解ってくれているから、自分は『志島弓生』でいる事が出来る。どんな事でも、出来る。

 ………最初に出逢った時は、只の無礼な奴だったのにな………。

 前方で手を振る聖に気付かれぬよう苦笑する。聖は目が良い。解っているだろうが、知っているだろうが、それでも、今自分がこんな事を考えているだなんて、とても聖には教えられない。

 だから、ほんの少しだけ嘘を吐こう。もちろん『ユミちゃん』については今現在も訂正を希望する処だが、それだけを気にしているかのように、冷静に、平然と。
 意図的に表情を殺す弓生に聖は微笑った。弓生が不器用なのはいつもの事だとでも云うように。

「ええやん。ユミちゃん、それでのうても愛想悪いんやから、せめて名前だけでもかわいくせんと」

 勿論、聖だとて解っている。
 騙されてやんのも愛情やでと云わんばかりに、手に持つハンバーガーに齧り付いてみせた。

 千年を経て現代に潜む鬼達の、それは、一瞬のひととき。

 
 

 

 

 

【透きとおる愛を、あなたに】

 

 

 

 

 

 

 

 

「教授も孫先生も休憩になさいませんか? 朝からずっと温室に籠りっぱなしですよ。冷たいものでもお煎れしますからどうぞ」
「ミス、マリア」
「やぁ、それはありがたいね。そっちの方はどうだい? 孫君」
「あとはこの苗の成長記録を写せば一区切りといった所です」
「ではさっさと終わらせてお茶の時間といこう。マリア女史の煎れたてのお茶は研究記録の一つに匹敵するぞ」
「そうですね、ずっと暑いところに居たから喉がカラカラですし、楽しみです」
「口の上手な人達ばかりですこと。褒めて下さった御礼には何を差し上げたらいいのかしら」
「それでは『愛』を」

 

++ 透き通る愛を、あなたに ++

 

「あれ? あまり気温が変わりませんね。この部屋にも苗を置き始めたんですか?」
 作業用の白衣を脱ぎながら研究室のドアを開けた悟飯を、少しばかりむっとした熱気が出迎えた。
 季節は二月半ば。研究対象である各種の苗を育てている温室は25度前後の気温に常に保たれていて、記録のチェックに一時間も掛かれば汗ばむ程であったが、もともと暑い場所でもない西の都である、窓の外を眺めればまだまだ粉雪の舞う季節、暖かい温室からワンフロア挟んだ研究室に戻れば、自然ヒーターの傍へ近寄ろうとする足の早くなるのが常であるのに。
 不思議と思って見渡しても部屋には特に増えた緑も見えず、悟飯は疑問のままに首を傾げた。一足早く部屋に戻った銀髪の老教授は、若き新米教授のどこか幼く見える仕草にこっそりと忍び笑いをもらしながら、トレイを捧げ持つ優秀な秘書の思い遣りに、片手を胸に付け、ゆっくりと頭を垂れる事でその謝意を優雅に表してみせる。
「優しい愛情に心からの感謝を。レディ」
「どう致しまして。冷たく引いた汗に風邪でも引かれたら私が困りますもの」
 お若い孫先生だけでしたらそのまま放っておきますけど───。
 作り事めいた優しい掛け合いに、なるほどと悟飯は納得する。確かに朝から三時間ばかり頑張った労働の代価として、首筋に伝う汗は拭えばその手を光らせる程であったけど、その分、急激な温度の変化についで体温を奪うのも激しい。ただでさえ風邪だインフルエンザだと流行っている季節に、その変化は体力の余っている自分はともかく齢を重ねた老教授の身体には少々響きが過ぎるものであったろう。
「まぁこのままでも御身体には良くありませんから、ゆっくり室温を下げて参りますわね」
 お二人とも、こちらで喉を潤した後にシャワー室へどうぞ、と、手渡された大きなグラスから漂うのは、冷たく冷やされて尚香気を失わぬかしいだ香り。漆黒に近い液体の中には綺麗に白い氷がカラカラとこそばゆい音を鳴らしている。
「珍しいですね。今日はアイスコーヒーですか」
「ええ、今日はね。たまには紅茶以外のものでも変化があってよろしいでしょう?」
「成る程。ミス.マリアの愛情で甘くなる訳か。これは心してご馳走になるとしよう」
「三時にはちゃんと準備してございますから」
「教授?」
「おや、気付かないかね?」
「?」
「今日みたいな日は常に気を配っていなければ失礼に当たるというものだよ。特に麗しきレディの前においてはね」
「でも、そういうのも孫先生らしいですわね───」
 くすくすと笑う秘書と和やかに軽口を交わしながら、ちょんちょんとマクガレンが手に持ったグラスを突ついてみせる。
 大人の余裕にはいつも敵わないと思いながら、喉に滑り込む冷たさと心地良さに知らずグラスの半分ほども一気に干して、つられる様にその中を覗き込めば、少なくなった珈琲からまだその溶けきらぬ姿を見せる白い氷───その形はハート型をしていて。
「あ」
 一言声を上げたままきょとんと氷を見つめる悟飯に、マクガレンが茶目っ気たっぷりなウインクを一つ。
「そんなに急いで飲んでしまったら甘くないだろう」
「てっきりブラックだと思ってました───これ、ミルクですか?」
「ちょっとアレンジしたものをね、製氷器で凍らせたの。ハッピーバレンタイン? 孫先生」
「ありがとうございます」
「私は孫君のような勿体ない真似は出来ないな。ゆっくり味わわせてもらうよ」
 見せつけるように殊更ゆっくりとグラスに口をつける老教授に、何もかも心得ている秘書がにっこりと笑う。
「教授は甘党ですものね。教授の分には氷とは別にシロップも入れてございますから、そんなに待たなくとも甘い筈ですわよ?」
「おお、エミリに妬かれてしまいそうだ」
「奥様にもちゃんと準備してございますからご心配なく───」
 穏やかに流れる時間の中で、悟飯の脳裏には全く別の人影が浮かんでいた。そう云えば今年の朝もいつも通りに過ごしたけれど、モノの食べられない「あのひと」の為にちゃんと準備はしてあるけれど、でも───!
「ミス、マリア。その製氷器って何処で売ってたんですか?」
 勢い込んで訊いて来る口調の真剣さに、あららと秘書は目を丸くし、老教授はヒュウと口笛を吹く。
「まだ売ってたら、買って帰りたいなと思いまして───」
 選びに選んだ手袋は、僕の気持ちの温度みたいな深紅。勿論喜んでプレゼントに捧げるけれど、やっぱり僕も───『愛』を贈りたい。
「あれは近所の雑貨屋さんで見つけたの。私が買ったのが最後だったからお店にはもう無いと思うけれど、お入り用でしたら、宜しければ私のを進呈致しますわ」
「いいんですか?!」
「ええ。だって私はもうこうして使い終わりましたし」
 洗って給湯室に置いてございますから、後でお渡し致しますわね───との台詞も聞き終わらぬ前に、ありがとう感謝しますと残った珈琲を飲み干すなり悟飯は秘書の手を──彼女が痛いと眉を寄せる程に──握りしめ振り回した。

 ───今日は二月十四日。バレンタイン・デイ。

 愛しいひとに、大事なひとに、大切なひとに、その想う気持ちを届ける日。
 贈り物にはチョコレートが定番だと巷では甘い匂いが満ち満ちているけれど、チョコも珈琲も食べられないあなたの為に、僕は透明な愛を贈ろう。
 家に帰ったらすぐ水を張って───そうだ、キッチンの冷凍庫ではバレてしまう。仕事部屋の簡易冷蔵庫で作ろう。どうにかして見られないように水を張るかが問題だけど、其処はそれ、あのやんちゃ坊主をけしかけさせてもらうとしよう。

 ゆっくりゆっくり───でも今日中に、透明なハートを作ろう。
 ほんの少しだけ砂糖を入れて、透明な甘さを、綺麗な水に浮かべて。

 ああ───どんなカオをするだろうか。

 

 

 

 

 

【日々是好日】

 

 

 

 

 洗い物は済ませた。
 気になっていた水周りの掃除もした。
 玄関の砂もきれいに掃いて、防水スプレーを噴き付けた革靴の手入れもばっちり。スーツのブラッシングだって完璧だ。
 ここ数日の出動続きで溜まってしまっていた汚れ物は、静音が売りの最新型洗濯機によって残らず成敗され、薄い紗のカーテン越しに透けて見えるベランダにきっちりと並んでいる。


 絵に描いたような休日。絶好の晴天。

 ちょお高かったけど、静かなん買っといてもろて良かったなあと、ベランダで優しく風を受けてはためくTシャツやタオルの数々を眺めては、嶋本はいたく満足気ににんまりと笑った。
 夜討ち朝駆けは当たり前、天候によっては一週間も部屋に帰れない事などざらにある職務では、一般家庭に見られるような定期的な家事の遂行など不可能に近い。当然基地に準備してある予備も底を尽きだすから、夜道にも眩しいオレンジばかりが基地近くのコインランドリーに駆け込む事になる訳だが、洗い上がりを待つ間にも容赦なく呼出しのコールが鳴り響き、戻って来れた頃合いにはそれなりのトレーニングウェアなどはきれいさっぱり姿が消えている。ひそかにマニア垂涎の的と狙われている官給品の名前入りTシャツなど云わずもがなだ。基地に設置されている古ぼけた洗濯機の競争率など何をか云わんや。
 定時? それなに美味しいの? と同類相憐れむ官舎ならまだしも、それなりにご近所付き合いも疎かに出来ないマンション住まいでは、国家公務員として隣人への騒音加害などシャレにならない。
 それが世に聞こえた「神兵」真田であるなら尚更だ。

 

 待機も準待機も繰り上げて、専門官の号令が掛かる度にボンベと資器材を引っ掴んでヘリへと飛び込んだ数日間は、いくら隊長たる真田のジンクス──真田が当直の時は出動が多い──によって否応なしに激務に慣れさせられた三隊の精鋭を持ってしても、到底ごまかしきれない疲労の泥寧へと叩き込んだ。
 間を置かず次々と発生した低気圧の最後のひとつが遠く太平洋の向こうへとコースを取り、ようやくすっきりと見通しのよくなった天気図を眺めた専門官が、「お疲れ様」と後ろを振り向けば、文字通り疲労困憊といった風情の面々が古ぼけた休憩用ソファに沈み込んでいた。超人と云うよりもいっそロボットじみた体力を誇る真田ですら、「お疲れ様です」とかろうじて応答を返すも、その目元には青黒いクマが澱み、特徴的な片二重にも些か覇気がない。
 海難の現場であれば、この瞬間にも疲労など微塵も感じさせない動きで要救助者の元へ向かうのであろうが、一万二千名を越える海上保安官の中から一パーセントにも満たない選考をくぐり抜け、潜水士たる称号を得た者の頂点に立つ特殊救難隊──その一隊を率いるたった六人の内のひとり──抜きん出た出動回数と誰にも及ばぬ救助成功率をして、同僚からも畏怖をもって『神兵』と字される真田にしろ、その肉体と精神は間違いなく「人間」だ。
 滅多にない事ではあるが、真田がそうして疲労をあらわにするところを見るのは、嶋本にとって嫌な事ではなかった。いくら「ロボ」だ「神兵」だと云われたとて、真田だって嶋本と同じく「人間」だ──多少標準より外れているかもしれないが、嶋本と同じく「ひと」であるのだ。笑い、泣き、同じものを食べ、隣に寝転び、手を伸ばせば触れられる──欲情だってする、ただの男だ。

 背筋をぞわりと駆け上がる感覚に、思わずぎゅっと目をつむる。

 

 何とか落ち着いた天気図を念の為にと夕方まで睨みつけ、専門官からの「もういいだろう。三隊は今から明後日の○九○○まで非番とする。明けは準々待機だからゆっくり休んでくれ」との言葉に、ほうと大きく息を吐いたのはけして嶋本ばかりではなかった筈だ。
 尤も、通常の中では特救隊のカリスマとも云える真田の成果ばかりが人々の言の葉に登りがちだが、レスキューの大前提として、いかなる救助活動も真田ひとりの行動では在り得ない。突拍子もないくらいある意味自己中心的に動く真田を完璧にサポートし、また、自分と同レベルの動きを要求する真田の指示に対して百パーセントの成果とそれ以上のフォローをこなす嶋本がいてこその「神兵」である事は、改めて云わずともこの羽田では周知の事実だ。
 どちらかと云えば、絶対的に体格で優る真田と同等のレスキューをこなし、その身軽さを活かして、重量制限のあるヘリでの出動にも真田のバディとして欠かさず付き従い、望まれた成果を叩き出してみせる嶋本の方が、その苦労を実感する同僚からの評価は高い。特救隊の隊員、しかも副隊長でありかつ新人教官も兼任する彼の事、当然その身体は人並み以上に鍛え上げられてはいるが、他の隊員と比べたなら格段に細身の部類に入る。
 特別大柄とは云えない真田とすら、頭ひとつ分は優に違うあの小さな身体のどこにあんなスタミナとパワーがあるのかと、解読不能な真田の言動を翻訳出来る不思議と合わせて、新人の間では嶋本も十分に規格外の存在だ。
 まぁどれだけ好奇心に悩んだところで、ピヨピヨと鳴いてはプールに叩き落とされた記憶から抜け出せていないヒヨコの分際で、「鬼軍曹」の異名を誇る我等が教官殿に、軽々しくよもやま話の類を仕掛ける体力も度胸も余っている者などいる筈もない。
 ともすればロッカーの前で隊服に手を掛けたまま居眠りに走る新人を蹴飛ばしては追い立て、しまい込ませた筈の資器材の確認をもう一度繰り返してから、真っ当に動いているようで実は先程から上の空で返事を返している上司の袖を引く。

「隊長、帰りましょ」
「安堂達は?」
「ちゃんと起こして帰らせました。途中で寝ていても拾っていくように、小鉄に帰路は指示済みです」
「しきざ」
「確認点検全て終わってます。スーツも俺のと並べて干してますし、ボンベも補充しておきました」
「…」
「報告書は休み明け一週間以内でええそうです。大体出さなあかん事例が一件や二件じゃ済まへんのやから、今からやったって到底全部なんか終わりません」
「……」
「勿論俺かて帰ります。……じゃあ、洗濯機貸してくれはるんなら一緒に洗ってまいますから、ちゃんとシャツ全部バッグに突っ込んで下さいよ」

 既に言葉どころか視線だけでの問いに、ロボ専用翻訳機の異名も併せ持つ嶋本がきびきびと答えを返す。海中では濁った視界の中ハンドサインやアイコンタクトだけで瞬時の判断を通じ合わせるが、クリアに声が届き顔色まで見てとれる陸でまでそれをする必要性はない。それなのについ言葉を省略しがちになるのは「云わなくても嶋本なら分かってくれる」と知っている真田の不精と甘えで。わざわざ声に出して嶋本が答えているのは、重ねた激務における疲労で、ただでさえ少ない一般常識を留めるネジが二〜三本吹き飛んでいる真田に、今現在の場所とこれからの優先順位をしっかりと認識させる為だ。
 
「ほら! 早う着替えてまいましょ! あんま遅なるとコンビニ飯もろくなん残ってませんよ!」

「なんだあシマ、今晩の手料理はサボりかYO!」
 ロッカールームでもさもさと着替え始める真田に替えの服を手渡しながら、てきぱきと汚れ物を紙袋に詰めていく嶋本の後ろで、同じく出動から戻ってきた黒岩が笑う。
 真田と同じく隊を率いる隊長でありながら、代々の新人教官の監督も兼任するベテランは、かつて自らが鍛え上げた教え子である嶋本とまるで親子のように仲がよい。特救隊きっての体格を誇る黒岩と嶋本が並んだ姿といったら──迂闊に軽口を叩いた代々の新人は、もれなく嶋本のハイキックによって地べたを嘗めさせられている。ここら辺は保大保校から続く体育会系の洗礼というよりは、単に嶋本個人の気質によるものであろう。
 蹴り一発で済ませてやるなんて随分と丸くなったものねとは、隣接する航空基地に羽を休める名物機長のお言葉だ。
 生命を預かる職務として当然のこと、絶対的な上下関係は厳しく統率されているが、それでいて職務を離れたところでは反ってフランクな部分も多い。特救隊員の資質として必要なものは? との問いに、揃って「明るさ」と答えていたのはいつの時だったろうか。夢でまでうなされるダブル軍曹が、聞いている新人たちが青くなるような口調でやいのやいのとやり合っているのも、ベテラン勢にとってはとうに見慣れてしまった微笑ましいじゃれ合いでしかない。

「手料理て無理やそんなん! 俺かてへとへとなんにバッテリ切れのこんひと連れ帰って飯食わすだけでも褒めてや!」
 労働は洗濯機使わしてもろてチャラにさしてもらうし! とくせ毛を掻き回すごつい手を振り払いながら逃げれば、「でも真田の分も洗ってやるんだろーが!」と相変わらずの応酬が続く。
「HAHAHA! いい嫁もらったなぁ真田! 別れたらこっちに貸せYO!」
「嫁ってなんや嫁って! サブい事云うなやオッサン!」
「おいおいちっとは遠慮しろっての。やっぱ嫁の教育がなってねぇぞ真田ー!」

「譲りません」

「へ?」
「HAーHA! ロボでもいっちょ前にジェラシーってKA!」

 いつの間に着替え終えたのだろうか、見慣れたスポーツウェアにパーカーのファスナーを顎元まできっちりと上げた真田が、見た目だけは普段と変わらずに直立していた───が。

 ………目ぇ開けたままバグってんじゃないわもーッ!

「婚姻関係は残念ながら結べませんが、俺は嶋本を離す気はありませんし、黒岩さんが俺を嶋本の配偶者として認めると云うなら尚更」
「たいちょ! 滑ってます滑ってます! そんなんで笑いなんか取れませんて! いつのネタですかそれってハナシですよそれ!」
「あーん?」

 ──残念なのか。
 ──いや離してやれよ。
 ──笑いを止めてどうする元五管。
 ──本気で焦ってるから余計にギャグに聞こえないんですけどー、という突っ込みは、妙に静まり返った周囲の胸の内でのみ為された。

「嶋本を誰にも譲るつもりはありません。シマが嫌がっても、きっと」

 ───ずっと、一生。

 唇の動きだけが示した誓いは、嶋本だけに届けばいいこと。
 嶋本の顔がボボボと音がしそうな勢いで染まってゆく。

「やーかなんなぁもお! やっぱ有能な男はもてるわあ! そんなんやったらまた来年のドラフトでもお願いしまっす!」
「んっとにおめえはシマに任せっきりだNAオイ」
「デキる男はとーぜんやん!」
「ちみっこにしちゃあやる方だがNA」
「ゴリラと違て進化してるもんで」
 「上司に向かってゴリラとはなんだちび猿!」「俺のたいちょちゃうやんけ!」──再び始まったすったもんだも、かたや真っ赤な顔で、かたやいかにも上機嫌に笑いながらでは、見ている者は笑うしかない。 

「帰ろう嶋本。夕飯なら前にシマが冷凍しておいたのがまだ残ってる筈だ」

 いっそ白々しいほどの明るさで騒ぎ立てる二人を、嶋本の荷物と合わせて担いだ真田が急かす。
 ──冷凍ってやっぱり手作り?
「あっすんません俺の分まで! 自分で持ちますんで寄越して下さい!」
「嶋本より軽い」
「だーもーたいちょまで!」
 ──なんでシマよりとか。
 
「ほなお先に失礼します! お疲れさんでした!」
「お疲れー」
「頑張れよー」
「お疲れ様でした」
 頑張れってなんじゃ! 俺は寝るんじゃ! とムキになる嶋本を引きずるように、真田がスタスタと立ち去って行く。
 相変わらず背筋をぴんと伸ばして歩く背中の隣には、一段下がった位置に見慣れたくせ毛の頭が並んでいて、それもまた、日常の風景だなと誰かしらくすりと小さく笑った。

「まったく面白えNA。あのバディは」
「どっちか移動になったらどうすんだアイツ」
「連れてくんじゃねぇの? やりかねねえぞー真田なら」
「…真田ならな」
「あれってやっぱりヤキモチか?」
「婚姻届だし」
「……神兵だもんな」

 真田だもんなー! と笑い合うベテラン勢の片隅で、未だ殻が取れていない新人が、不思議そうに隣に立つ先輩に問い掛ける。

「ねぇ、さっき真田隊長と嶋本さん手ぇ繋いでましたよね?」
 ───どうして皆そこはスルーなんですか?

「云うな大口」
 スルーも何も、それこみで「見慣れた風景」なのだと誰が云えよう。
 はっきりと聞いた事などないが、あの二人がお互いをとても大事に思っている事など、二年目以降の隊員なら誰しも周知の事実だ。嶋本などはいつも必死にごまかそうとしているが、片割れにその意識が全くない、と云うか素でオープンに動いているので、嶋本の努力は毎回苦笑の元に流されている。
 二人の為と云うよりは真田の為であろう行動が、肝心の本人に全く理解されていないのが、僭越ながら時々不憫に思える。多分に嶋本も真田の感謝など望んでいないだろう事は想像に難くないが、果たして真田は嶋本のそれを知った時に感謝を覚えるだろうか。
 常識とか体面だとか聞こえだとか、そういったものとは無縁なロボだからこそ、そのレスキューと同じく、一番大切なものだけを唯一に掴み続けるだろう。
 誰に迷惑を掛けている訳でもなし、別にいいじゃないかと佐々木は思う。
 明日も同じように笑い合える保証なんてどこにもないのだ。例え常識よりほんの少し外れた関係だとしても、生きて、温かいならそれだけで。
「送ってやるから、お前も帰るぞ」
 生命のはかなさを殊の外知る北の鉄人は、「ちゃんと聞いてますー?」と妙に度胸の座っている新人の頭を無表情のままぐりぐりとなぜた。

 

「たいちょー、起きて朝飯食いましょうよー」
 俺腹減ったんすけどー。
 ひとしきり朝の日光浴を楽しんだ嶋本が、リビング続きの寝室へと声を掛ける。わざとドアを全開にしたから、遮光カーテンを引いてある部屋に斜めに光が差し込んでいて、部屋全体がほんのりと明るさにけぶっている中、窓際に寄せた大きなベッドにこんもりと盛り上がりがあるのが何故か可笑しい。
「たーいちょ」
 宿直中ならば、わざわざ声など掛けずとも交替時間の前に目覚めている寝起きのよい男が、自室のベッドとはいえ呼ばれても気付かぬ程に熟睡している。非番だという認識が無意識下でも分かっているのか、もしくは馴れ親しんだ声は当然そこに在って不思議はないものと耳が流しているのか、おそらくそのどちらでもあってどちらだけでもないのだろう、その事に、嶋本の気持ちがほっこりと緩む。
 プライベートの時ですら、緊急時にはどんな小さな呼び掛けにも瞬時に反応するくせに、分かっているのか分かり過ぎているのか、淡くベッドに落ちる影は身じろぎひとつしない。
 気を許してくれているのは嬉しいが、このままでは作った朝食が冷めてしまうと、一か八か嶋本は非常手段に出る事にした。揺すっても捻っても起きてくれないのだから仕方がない。携帯電話のコール音なら一発だが、それは休日の朝に相応しくないし、何より自分も聞きたくない。
 しゃあないなーとほんのり頬を染めてエプロンの裾を握りながら、ぺたぺたと裸足のままベッドの枕元へとしゃがみ込む。

「…たいちょう」

 ほんの少し潜めた声は、夜のしじまに溶けるものと同じ。

 これでダメならマジで携帯電話かフライパンか…と、武器を探して嶋本がリビングを振り返ったその時、いきなり毛布からぬき出た筋肉質の腕が嶋本の腰に回り、そのままベッドの上へと引き倒した。
 いくら体格差があるとは云え、一応は大人の男を腕一本で転がすとは何という膂力か。
「ちょっ隊長! いきなり何すんですか!」
 不埒な手は動きを止めず、あっと云う間に嶋本を組み敷いてしまう。漏れ入る日の光から隠れるように毛布を翻らせて、二人で包まった薄暗がりから忍び笑いが零れた。
「たいちょう!」
「…おはよう、しまもと」
 薄目を開けて首筋に鼻を擦り付けてくる様は、まるで大きな犬にでも懐かれているようだ。
「もう! 狸寝入りなんぞずるいですよ!」
「してない。呼ばれたから目が覚めただけだ」
「何度も呼んだんに!」
 知らないな、気付かなかった、と小声で謝りながら、大きな手がゆっくりと頬をなぜ、額に小さな口づけを落としてゆく。
 優しい感触とシャツ越しに伝わる真田の体温にうっとりとしかけて、嶋本は慌てて現在の第一目的を思い出す。
「たいちょ、もういい加減起きましょ。朝飯出来てますんで」
「ああ、腹は減ってるな」
「でしょ? ぎりぎりやった野菜類片付けさしてもらいました。俺特製けんちん汁は旨いですよー」
 ぺちぺちと頬を叩いて離せと云っているのに、がっちりと嶋本を抱え込んだ両腕はびくともしない。
「ほらたいちょ、早よせんと冷めてまう」
「………確かに空腹だし嶋本のけんちん汁は美味しい」
「たいちょ?」
「でも、今は嶋本が食べたい」
 大きな手がごそごそと目的を持った動きに変わる。背筋をついとなぜられて、思わず嶋本の腰が浮く。
「隊長! 朝っぱらですよ!」
「昨夜だってしてない」
「あー…すんませんねぇ先に落ちて……って、ちょ、ほんまシャレにならんて」
 のけ反った首筋に軽く歯をたてられる。本当に大きな犬のようだ。
「隊長!」
「そんな格好をしているから、誘ってくれていると思った」
「そんなカッコて」
「俺のシャツだな」
 嶋本よりもふたまわりほど大きなTシャツのえりぐりからは、容易に鎖骨が覗いていて、ここ数日着続けだったきっちり着込まれた隊服とのギャップに、我ながら重症だと思いつつも真田は目が離せない。
 そうは云っても嶋本が真田のシャツを着ているのは、単に洗濯機を廻すついでに自分の洗濯物も一気に片付けてしまおうと目論んだ為であるが、どうせ部屋から出ないし乾くまでだけだしと借りたシャツに欲情されてはたまらない。
「新鮮でいい」
「Tシャツで盛るてどんだけッ…!」
「それに」
 すこし湿り気を感じる掌がハーフパンツの上から熱をまさぐる。薄い布地越しに緩い反応を確認して、そのまま形をなぞるように撫で上げれば、真田の下に抱き込まれたままの小さな身体がぶるぶると震えた。
 悪戯な指は止まない。
「嶋本はしたくないのか…?」
「やっ…もう、あっ……ア!」
 白状するなら、真田のベッドから抜け出した時から、その体温が恋しくてたまらなかった。着るもんがないからと自分に言い訳して、わざと真田が脱ぎ捨てたシャツを身に着けたのも、洗おうと拾い上げた際に掠めた匂いに、もうどうしようもなくなってしまったからだった。
 疲れている以上に、真田が欲しくて。その熱い腕に抱き締められたくて。 
 でも、自分が先に眠ってしまった上に、自分よりも疲れている真田をその為に起こす事なんて出来なくて。
 だからせめて、真田に包まれている気分に浸りたかっただけなのに。
「たい…ちょっ」
「うん。可愛いな、しまもと」
 布越しの動きがもどかしくて、嶋本は必死に身をよじる。
 火を点けられた身体は、こうなってしまえば自分のものじゃないみたいに嶋本の云う事なんて聞かなくて。
「キスッ……!」
「温め直しても、きっと美味しいから」
 溺れるひとのように口をぱくぱくさせて必死に息を紡ぐ嶋本に、真田がゆっくりと顔を寄せる。

 だから、今は
 もう一度、夜を始めないか?

 優しい問いかけは、二人の間で蕩けて消えた。
 後はもう、───こいびと達の時間だ。

 

 

 

 

 

 

【きみのいるふゆ いないふゆ】

 

 

 

 


 そらからしろいふわふわがふってくる
 ふわふわして、つめたくて、みてるとなんでかむねがいたくなるきがする

 「ゆき」がふってきたら「ふゆ」なんだって

 おれはみるのはさんかいめだ
 うまれてからさんかい、「ふゆ」になった

 ……あいつはなんかいめかな


「こがねー? ご飯だぞー?」
「しっ」

「どうしたんです? …ああ、また外を見ていたんですね」
「外に出られんから退屈なんだろう。置き去りくらってるしな」
「こがねの足はまだ治ってませんからね。雪遊びはもうちょっと我慢してもらわないと……こがねが見てるって事は、ろいは?」
「あそこだ。外に出て随分経つから、そろそろ戻ってくるだろ」


 まっしろいにわに、まっくろのろい
 ろいだけうかびあがってるみたいにとくべつで、きれいだっていったのに。なんであんなかおをするのかな

 『くろいしみみたいだろう。おれはよごれてるからな』

 まっくろのけなみはつやつやしてて、みどりいろのめもとてもきれいなのに
 すごくきれいなのに


「冬に死にかけてたくせに、どうして外に出たがるんだかな」
「本当に。散歩という訳じゃなさそうですしね」


 さがしものがあるんだって、いってた
 そういうときのろいは、おれもだれもいないみたいに


「でもさすがに今日は回収させてもらいます! ろいにだってちゃんとプレゼント買って来たんですから」
「ああ、クリスマスか。……猫に分かるのか?」
「こがねは『ごちそうのひ』って思ってるみたいですけどね」
「大して変わらんだろう」


 しってる
 くりすますはほしいものがもらえるひで
 おねがいをきいてもらえるひ

 まえのくりすますに、ぴっころがろいをつれてきた
 しなないでっておねがいしたら、あさにはめをあけてくれた

 ちゃんとしってるよ


「ひどいな〜。ちゃんと毎年プレゼントあげてるじゃないですか」
「プレゼントだけで済んでないだろーが! 自分の胸に手を当てて考えてみろ!」
「………」
「少しは反省しろ。お前だっていい加減いい歳だろうが」
「そうですね」
「ふん」
「『ごちそうのひ』、だ」
「!」


 ごはん、ゆきがふってきたよ
 ゆきはきれいだけど、つめたいよ
 つめたいから、はやく、はやくろいをつれてきて


「ああわかったってばこがね、すぐろいを連れてきてやるから、お前はそこでいなさい」
「にゃーッ!」
「こがね、あれはヤツが悪いんだからな」
「……にゃ」


 まっしろいにわに、まっしろいふくをきたごはんがあるいていく
 まっしろのにわに、
 ごはんのあしあとと、ろいのあしあとと、ごはんのかみのけと、ろいだけがくろい

 きれいなのに、どうして


「……にゃあ」
「…そんな声を出すな。大丈夫だ」
 ───二人ともすぐ帰ってくるから


 だっこしてくれたぴっころはあったかいけど、
 きっとふたりはつめたくなってる
 『かえって』きたら
 おかえりっていってあっためてやらなくちゃ

 ろいが、かえって、きたら


「ただいまー!」
「……に」


 おかえりなさい、ふたりとも
 あったかくなって、あったかいばしょで、いっしょにいようね

 ………ずっと

 

 

 

【BEANS attack】

 

 

 


 鬼は内、福も内。
 だって我が家においては大魔王様が倖せをくれるから。

 

++ BEANS attack ++

 

「おにはーうちー!」
 開け放った窓から入り込む冷気を押し返す勢いで、淡く光りを反射した小さな粒が夜の庭に舞っている。二月に入ったとは云えまだまだ冬と云える季節の空気はどこかきんと澄んでいて、去年まではそれも好ましく感じていたけれど、残念ながら今年は別。
「いい加減にしないか悟飯! 部屋が冷えるだろうが!」
「ええーでも沢山の福を呼び込まないと!立派な伝統行事なんですよ!」
「その伝統行事とやらを勝手に改変してるのは何処の誰だ! いいから閉めろ! 俺は構わんがアイツが震えてるぞ」
「え! わ! ごめんなさい!」
 まだ炒り豆が残ったスープカップを器用に親指に引っかけながら、悟飯が慌ててばたばたと窓を閉めカーテンを引いてゆく。吐息が白くけむる冬の冷たさは決して嫌いではないけれど、小さな仔が居る今は暖かな温もりが優先だ。
 冬用の厚手のカーテンの合わせ目をきっちりとリボンで結んで、これで良しと後ろを振り返れば、さほど大きくもないヒーターの前に陣取って動かない茶金の固まりの姿が見えた。
「………みぃ」
 ごめんねと小さな額をくすぐっても不機嫌そうな目つきはなかなか直らない。もう古くなったからと下げ渡された悟飯のマフラーの中で、ほわほわな毛を懸命に膨らませながら、冷えたリビングに暖気が戻るのを待っている。
「すっかり機嫌を損ねたな」
「そうみたいですね〜つい夢中になっちゃって」
「後でたっぷり遊んでやれ。部屋が温まればまたじゃれてくるだろう」
「ピッコロさんも今日一日で随分とやられたみたいですね」
 おやつ用にと残しておいた炒り豆と暖かいほうじ茶を手にキッチンから戻ってきたピッコロの長衣の裾を、御機嫌取りを諦めてソファに座った悟飯がぺろりと手に取って笑う。
「ほつればかりじゃないですか」
「ああ、小さな爪が細いだけによく生地目に引っかかってな。本人は面白がって飽きずに飛びかかって来るんだが、正直歩きながら蹴っ飛ばしやしないかとヒヤヒヤした」
「蹴っちゃっても猫ですよ」
「この小ささじゃまだ受け身は取れんだろうが」
「僕だって受け身とか取れなかったです」
「お前は無性に蹴ってやりたかったんだ」
「ピッコロさん酷い〜!」
 冗談に聞こえない声音で云い放つピッコロさんにじゃれ掛かかっても、照れ屋な奥さんは容赦なくテ−ブルの上の武器を取って応戦してくる。
「鬼は外」
「わ、わ! 痛いですって! それにまだ僕食べてないのに」
「床はきっちり掃除してる。遠慮なく拾え」
「全部僕ですか!」
「当たり前だろう。俺の仕事は豆を炒って巻き寿司を作るところまでだ───喰うのは全部お前。当然」
 せいぜい頑張って拾えと意地の悪い顔をして豆をぶつけて来るピッコロさんは妙に楽しそうで、ああこんな時間が福なのかもと、僕は遠い東の国の神様にちょっぴり感謝した。
 ひとしきり豆をぶつけ合って、遊んだ後は片付けだと、どうせならば数を数えながら床から小さな豆を拾っては口に入れてゆく。残りの豆はきな粉になるんだろうか煮物になるんだろうか。煎った豆をもう一度湯に浸けてふやかして、トマトソースに入れても食べごたえあって美味しいんだよね………と、柔らかい感触を思い出しながらも、今は咥内から聞こえるポリポリとした音が楽しい。と、フローリングに散らばった豆だけを眸に床にうずくまっていた僕の視線の先で、小さな黄金色の手が今にも拾おうとした豆をかすめとった。
「………お前か」
「みゃあ」
 うずくまったまま顔だけを上げれば、目の前には背を丸めて伏せた、独特の「遊んでポーズ」の毛玉の固まり。ぴこぴこと左右に振れ続ける細い尻尾が、その興味の所在を如実に表わしている。
「お、出て来たな」
「結構時間経ちましたしね〜。この仔に隠される前に全部拾ってしまわないと」
「拾わせてくれそうか?」
「みゃあ!」
 ソファに座ったまま面白気に言葉を投げるピッコロの声を自分への応援と取ったのか、大きな黄金色の眸がまあるく輝く。ふんふんと爪先で豆を転がしては追いかけ、掴んではまた飛ばしている。人間にとっては小さな炒り豆の一粒でも、このイキモノにとっては興味津々の対象なのだろう。
 ………だからと云って、食べ物で遊ぶのは戴けない。僕だって残りは全部食べるつもりだったんだから。
「食べ物で遊ぶのは良くないぞー」
「みぃ!」
 転がしている豆をその爪が掛かる寸前で横取りすれば、何をするんだと毛玉がぷうっと毛を逆立てた。飛びかかって来る前の前兆でじりじりと後じさり距離を取る毛玉の眸の前で、炒り豆をぽんと口に放り込んでみせる。
「これは、こうするんだよ」
「み?」
 わざとらしく舌で咥内を押して物を食べているんだと云う事を視覚に訴えながら、ゆっくりと音を立てて噛み砕く。
「食べるんだ。ほら、やってごらん」
「………………」
 眸を丸くしたままこっちを凝視している前に一粒、ころりと炒り豆を転がしてやれば、さっきまでとはまるで違うものを見る目つきで恐る恐る手を出している。
「まだ喰えんだろうが」
「ええ、でも節分だし」
 ───どう見たってまだ一歳どころか半年にも足りないから、じゃあ一粒じゃなくて齧るだけで。
「こう見えてもちゃんと、自分の食べられるものは解ってる筈ですよ」
 ほら、と。
 面白気に笑う悟飯の指差したその先で、まだ生え揃わぬ牙に刺激が楽しいのか、小さな両手に小さな豆の一粒を大事に押さえつけて、やっぱり小さな茶金色がごろごろとその手の中をしゃぶっては床に身体をこすりつけていた。
「キミにも、『福は内』、だ」
 そんな事を笑って云いながら、毛玉が夢中になっている間に残りの豆を全て拾い上げ、よいしょと悟飯は腰を上げる。
「ピッコロさんこれ残りどうします〜?」
「明日料理するからそのままラップでも掛けてキッチンに置いとけ。ああ、ついでに冷蔵庫の中から巻き寿司取って来い」
「待ってました!」
「お前は絶対ただ単に喰いたいだけだろう………」
 うきうきとキッチンに向かう悟飯の耳に、ピッコロの呆れ返った呟きが聞こえたような気がしたけれど、悟飯は敢えてそれを無視して意気揚々と冷蔵庫を開ける。
 ピッコロの巻き寿司は母のそれとは格別に美味しいのだ。何度云ってもそれは欲目だとピッコロは信じようとはしないが、悟飯には一片の偽り無くそう感じるのだから仕方が無い。大皿に乗った一本丸ままの巻き寿司を、心置きなく齧れるのなんて一年の内で今日だけなのだから、皿を取り出してはえへへと笑みが溢れるのは幾つになっても見逃して欲しい。
「ありがとうございます〜!」
 ソファに戻った食欲魔人の満面の笑みに、水しか摂らぬナメックスの自分ですら、気分だけでも何か食べたくなるのは何だか不思議な感じがしてピッコロは苦笑する。
「いっただっきまーす!」
「こら待て悟飯。恵方とやらを確認しなくていいのか?」
恵方?」
「ああ、チチが云ってたぞ。何でも食べる方角が毎年違っているんだろう?」
「僕の場合はこれでいいんですよ」
「どうせならちゃんと調べてみたらどうだ。大した手間でもあるまい」
「そうじゃなくって」
 今にもかぶりつく寸前だった巻き寿司を持ち直して、悟飯が嬉しそうに笑う。
「ほら、ちゃんと合ってる」
「そうなのか?」
 目の前で自分を見て笑う悟飯に、ピッコロは首を傾げた。
 合ってる、と云っても悟飯は何時もの位置に座っているだけだ。たまたま今年の方角がこっちだったという事なのだろうか。
「僕の恵方はピッコロさんの方角だから、ちゃんと合ってます」
「は?」
「じゃあ今度こそいっただっきまーす!」

 意味が解なくて首を傾げたままのピッコロの前で、悟飯が尋常じゃない勢いで巻き寿司を平らげていく。どうせ大食漢なのだからと海苔三枚ほども使って作った極太巻きだというのに、去年と食べるスピードが変わらない気がするのは何故だろう。
 何だか呆然とその食べる様に呑まれてしまったピッコロの裾を、ちょいちょいと何かが引っ張る感触がする。見下ろせばようやく炒り豆に飽きたのか、小さな手が膝を目指して懸命にクライミングに奮闘していた。
「みゃあ」
 余裕で片手に収まる毛玉を拾い上げてやれば、甘えるように身を擦り寄せてくる感触にふっと気持ちが和む。
「………良く食べるよなぁ」
「みゃあ」
「来年はお前も喰うか?」
「みぃ!」

 じゃあもっと大きくならないとな、と膝の上で転がせば、向きになったかのようにかぷりと噛み付いた黄金色の瞳と眸が合った。